□ 椎野潤ブログ 塾頭 本郷浩二 「日本人の木の文化を超えて」
日本人は木が好きではない。
これは、ある時期から私が持った反説的疑問というか、木づかいについてがっかりした思いを凝集した課題です。
日本は木の文化が育まれてきた、ということを巷では普通に言われます。西洋が石の文化であることとの対比で使われることが多いように思いますが、この時、どのような文脈で述べられているのでしょう。
西洋は、森を開発し、木を伐りつくして森を破壊して文明を発展させ、使える木がなくなったので、石や金属を使うことが発達した。西洋など大陸では異なる民族が陸地続きで土地や資源を争ったため、武力闘争が古来より激しく、まちを守る為に城壁を築き、燃えないまちにするために石、煉瓦の都市を造った。
一方、日本は豪雨などによる斜面災害から暮らしを守る為、山の木を伐りつくさないで自然と共生した文明を発展させ、木を主たる生活の素材として使い続けてきた。もちろん、土地を奪い合う武力闘争はあって都市が燃えることもしばしば起こった。燃えても、地震などで壊れることがあっても、軽いことや加工が容易なことで再建が早くでき、早期に機能を回復することができたので、木でできたまちを造り続けた。武力闘争も異民族ではない場合が多かったので、領主は変わっても領民は双方が比較的融合しやすかったことで、木でのまちづくりが続けられたのかもしれない。
正しいのかわかりませんが、簡単に考えると、こんなことでしょうか?
日本の文明は中国大陸の影響を強く受けているので、中国のように石の城壁・都市づくりが発展しても良かったのでしょう。寺院や宮殿建築などの軸組の建築技術は中国から伝わって発展したのに、石では発展しなかったのは、石の資源が相対的に少なかったのかもしれません。日本の国土は、年代的に新しく火山の影響の強い地質の土地なので、硬い石または脆い石が多く、それなりに風化を受けた加工しやすい石があまりとれなかったのだと思います。基本的には、やはり資源が身近にあるのかどうなのかが重要なのです。
さて、本題の日本人は木が好きなのかどうか?ですが、木でできたまちを作り続けてきて、木目や色の美しさに対するこだわり、工夫された多様な加工の手法が育まれ、木を使うことについて、日本人の感性、技術が発達したのはその通りでしょう。暮らしの習慣の中で、木づかいが広く、深く発展しています。感性も磨かれてきたと思います。先入観のない子供たちは、大部分が木の香りが好い匂いと言ってくれます。軽い、加工しやすいという特徴を持つ木を扱う木工が傷んだ精神の安定に効用があることもわかってきました。
木は普段使いの素材として身の丈の暮らしにおいて好ましいものと思う気持ちは、日本人全般にあるものと思って良いと考えています。
にもかかわらず、日本人は木が好きなのか?と思ってしまうのです。
その思ったきっかけについてですが、近年、住まいの匂いに対して敏感になってきているのか、芳香剤を通り越して、消臭剤、脱臭剤による無香空間として暮らしの空間が作られてきています。特に、日本人は匂いに対して過敏になってきているのか、加齢臭だとか汗臭さとかが敬遠されがちですが、これは、住まいについて、内装の壁(紙)、床張り、天井などがプラスチック素材ばかりになっており、家具や什器もプラスチックになって、生物由来の素材が発する匂いと接していないからかもしれません。どうも、木が使われてこなかった住まいに住み続けてきた人は、部屋に香るスギやヒノキの木の匂いを臭いと感じるようになっているらしいのです。驚きました。とすると、木を良いと思うのは、良い経験によって獲得されるものなのです。木を好ましいと思うのは日本の木の文化の良さに接する経験をしてきたからなのだと思いました。
木の文化の良さに接しなくなったのには、二つの側面があると思っています。
太平洋戦争の敗北により、日本人は日本の文化、文明について、西洋文化、文明に対する引け目、劣等感を強く抱いたのではないかと感じています。明治以降の舶来礼賛を見返すために日本が歩んできた皇室を中心とした国粋主義が灰燼に帰し、その劣等感の裏返しが、戦後復興や経済成長期以降の西欧に追いつき追い越せ、という心情となって、日本の木の文化を劣ったもの、古臭いもの、弱いものとして心の隅に追いやってしまい、未来の世界は西欧文明の鉄とコンクリートにありと思ってしまったのではないか、ということです。また、鉄腕アトム、鉄人28号などの漫画でも未来の街は鉄とコンクリートで表現され、木材、木造の文化が未来を表現する中で取り上げられることはなかったのではないかと思うのです。そのような風潮の中で成長し、暮らす方が多くなり、木が好きではない方が多いのだろうと思います。特に、産業界に身を置く方にその傾向が強いと思います。木づかいに取り組むに当たって、木材という素材が下に見られる、木材なんてと言われることもしばしばありました。
もう一つは、軽くて加工しやすいという木材の優れた点をコストや手入れの面で凌駕したプラスチックという素材が出現し、加えて、反ったり捻じれたりすることがない、着色がしやすい、同じものが大量に作れるといった点で、生物資材である木よりも便利さで勝ってしまったことがあげられます。木材が利用されていたものが次々と使い勝手の良いプラスチックに代わっていきました。木よりも好ましいと思ったかどうかは別として、選択はプラスチックに大きくシフトしました。近年、脱プラというウェーブが起こりましたが、なかなか、木材、とりわけ国産材の使用に転換される動きが拡大していかない印象があります。コストの面でバイオマスプラスチックや生分解性プラスチックなどが進化し、プラスチックの便利さを優先した商品開発が盛んに行われているからでもあります。便利さ、安さが好きを超えて大方の日本人の選択の尺度になってしまっているのではないかと失望しています。
現在の光明は間違いなく脱炭素、カーボンニュートラルですが、それは、またしても西洋発祥の考え方が持ち込まれただけ、選択の基準がコストや便利さから脱炭素に代わったというだけで、それに頼らなければ木が使われなかったところに、日本人は本当に木が好きなのかという疑問が起こるのです。
残念ながら、木の文化は木しか使える資源がなかった故であって、日本人は木が好きだ、木が良いと思っているというDNA的な虚構?には期待しないで、木が他の素材に比べて色々な側面から優れているものであるという事実を根拠にして、ウッドファーストの日本社会を作っていこう、と私は思っています。
木の文化を持ち出さなくても、触れれば暖かい、嗅げばよい香りが匂う、木目を見ることが落ち着きをもたらすなどの効用があります。聞くことも、音を吸収して、快適な反響をもたらすことは、名だたる音楽ホールの内装が木であることが証明しています。味わうは難しいですが、人間の五感にとって、木が優れた素材であることは明らかになっています。
また、構造材としての強度においては鉄やコンクリートに実数値で劣りますが、軽いので重量当たりの強度は決して劣りません。適材適所、工夫次第で木は建物の構造の材料として使われているのです。補強として、金物を木材の接合部に施せば横揺れの地震にも強い建物ができます。普通の暮らしであれば、鉄骨、コンクリートの家などに住まう必要はないと思います。マンションや団地などの集合住宅が木造だったり、木で内装が施されれば、日本人のほとんどが健康で快適に住まうことができるでしょう。
そして、木の家、木の建物、そして触れることができる木の内装をどんどん普及させれば、日本人は木が好きになり、日本の木の文化も再び未来に向かって輝きを取り戻すに違いありません。木材関係者は原因(木が使われる)と結果(木の文化、木が好き)を逆に考えて工夫や開発、改革の努力を惜しんではいけないのです。