私が森林や樹木について語る時、必ず最初に思い浮かぶのが「松」です。人工林の7割近くが杉やヒノキですから、森林再生という話になると普通はそのいずれかが主語になるのですが、私にとっての最上位は変わりません。それは幼い頃の記憶と、パイオニア植物として松の背負った運命に強く惹かれるからです。私が4~5歳
5月末には、全ての筆者の原稿が揃いました。私は「旅を終えて」の初稿を出してはいましたが、全体をとおして見た時に、改めて思うことを含め、大きく手を入れたいと考えていました。初稿を出してからも、ロシアのウクライナ侵攻とその長期化、佐伯や紀州の山を訪ねて見聞きしたことなど、外部環境も現状認識にも大きな変化
「いい子」でいたい自分から脱却しよう。その決意を固めた私は、「旅を終えて」の後半で、現状に甘んじて変化を嫌う態度に対し、はっきり決別すべきだと表現しました。今までの私なら、自分を棚に上げて何を言うか、と批判されるのを恐れ、中途半端な物言いしかできなかったでしょう。昔から私はよく人に「優しい」と言われ
佐伯広域森林組合の視察レポートを書き上げた私に、書籍を書くという話が舞い込みました。一人ではなく多くの方との共著ですが、何の実績もない私にとっては大きな挑戦です。しかも大手出版社で、私がずっと考えて来た、林業の産業化を実現するための本なのです。他の執筆者は大学教授や事業経営者、専門家で、期待に応えら
「佐伯スピリット」、ようやく相応しい言葉を探し当て、私は視察の様子をレポート①にまとめることができました。自分が見聞きして感動したことを丁寧に記し、100%再造林の取り組みと、個性も能力も様々な人達がそれぞれの職場で誇りを持って働いていることの素晴らしさを、その言葉に込めて紹介したのです。どのように
大分県佐伯市の「佐伯広域森林組合」そこで見た、林業と製材に関わる人々の生き生きした様子は、私にとって長い間探し求めてきたものでした。愚直に再造林に取り組む姿勢は、組合直属の伐採班以外の、別の素材生産業者が伐った場所をもカバーする徹底ぶりです。この地域の森林は自分達が守るという矜持、そこには、実家が林
旅行会社に定年まで勤めた後、退職した私は新木場の小さな木材団体で一年ほど勤務しました。ウッドステーションの塩地氏は以前から知っていましたが、その団体の主催するセミナーの講師を依頼したご縁で、氏が開発した「木造大型パネル」や、経営指導をされた森林組合について、深く知ることになったのです。氏が長年関
私が入った大学の学部は新設で、書くことを勧めてくれた恩師も新任、そして彼にとって私達は初めての教え子でもありました。6~7年後には東京の法学部に移り、最後は名誉教授まで勤められた先生に対し、多くの学生が卒業後もずっと心を寄せ続けました。学生とは立場を超えて真剣勝負、共に酒を酌み交わし、山に登り、合宿
会社で労働組合の委員長を3年務めた後、結婚と転勤を機に、私は組合活動から離れました。支店から営業本部へ、その後は本社に転勤となり、重要な業務を任されたことから、その後の10年ほどは仕事が中心の生活でした。しかし、どこか打ち込み切れない、その仕事を極めようと思えない自分がいて、虚無感に苛まれていたこと
旅行会社に入り、都内の比較的大きな店舗に配属された私は、そこで初めて労働組合の活動に触れることになりました。職場ごとに「分会」と呼ばれる組織があり、支店長や業務課長(NO2)といった責任者以外は、役職者も組合員という形態でした。政治学に関心のあった私は、月に一度開かれる全員参加の会合(これも分会と呼