人は皆、何かの物語を信じて生きている。キリスト教徒ならイエス・キリストの物語、物理学者なら物質を構成する粒子やニュートリノの物語、親を尊敬する人は幼い頃から聞かされたその教えを。
本屋大賞を受賞した浅井リョウの「インザメガチャーチ」を読んだのは、書評で紹介されていた、「神がいないこの国で人を操るには、「物語」を使うのが一番いいんですよ」というセリフが響いたからだ。アイドルグループのプロモーションに関わる人達が話す、信徒獲得・教義の布教・気質・没頭度・熱量といった単語に空恐ろしさを覚えた。
印象に残ったのは次のような文章だ。「推し活」は決して令和的なものとは言えず、寧ろ権威主義的な、昭和的な側面がある。オーディション番組で推しをアイドルに引き上げた人達は、自分達の手で世論を動かすという成功体験を持っている。数で闘える勝負に対しては戦闘体制が整っており、数で勝負が決まるものというのは、大抵、昔ながらの権威と結びついている。」「推しへの没頭度=熱量の高い一万人は、投票だけでなく自ら布教活動をして思いを広めてくれる、それは選挙も全く同じ」「差し出された物語に自ら乗り込み、没入していける気質の人、物語と自分との境界線が曖昧になるほど共感能力が高く、何でも自分ごととして捉えがちな人、対象に没頭し、自ら視野を狭めていける人。ひいては進んで布教や拡散に励んでくれる人」彼らをターゲットに巨大資本が餌を振り撒いていく様子がリアルに表現されていた。
日本でこれだけの格差が広がりながらデモや社会への抗議が少ないのは、「推し活」が福祉の一種として機能しているからだという説がある。視野を広げれば拡げるほど、一つの言説には必ず逆説もあり、何が正しいのか容易には判別がつかない。核兵器廃絶も気候危機への対処も、自分の無力さを感じてやりきれない思いをすることは多い。視野を狭めてしまえば、同じ対象に固執する人々と家族のような温かい連帯を感じられる。アイドルグループの運営者とファンダムは搾取の構図に見えるが、実際には物語の中毒になりたい人、自分のリソースを使い切る何かを求めている人は予想以上に多いらしい。連帯・繋がりの触媒としての「物語」は、古代から続く「神話」の成り立ちと同じとも言え、一概に否定できないと感じる。この本の受賞は、構成の見事さと、現代人の抱える欠落を埋めるつながりの形成に、いかに「物語」の効果が大きいか、危険なものになり得るかを示した点が評価されたのだろう。
では森を巡る物語を多くの人々に届けるにはどうしたらいいのだろう。それは正直私にもわからない。エンタメ業界を中心とした圧倒的な物量・情報量、その膨大なうねりの中で、小さな呟きに耳を傾けてもらう術はあるのか。一つできるとすれば、安心できる、長く続く暮らしの姿、古くから繋がれてきた日本人と森の関りの深さ、その物語に引き込まれる場を作っていくことだと思う。田舎暮らしには綺麗ごとではすまない困難があるというが、きつい共同作業をAIで省力化し、山から建築まで携わる人の顔が見え、山腹で育つ若木に励まされる、そんな暮らしに惹かれる人を増やしていけないだろうか。たった30年で、日本人の内側に刻まれた森の物語が消え去るとは私には思えない。人は森に入れば体の奥底にある何かの目覚めに気づく。再訪したくなるか、そこで暮らしてもいいと思うか、それは森の恵みを宝に変えられるかにかかっている。森には未来を紡ぐ物語があることを、私は信じて語り続ける。
文月ブログ
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