スペイン・バルセロナで140年も建設が続いているサグラダファミリアのメインタワー「イエスの塔」がようやく完成した。関係者が力を尽くし、設計者アントニ・ガウディの没後100年という節目に間に合わせたのだろう。ここで50年近く働き、今では彫刻部門の責任者を務める外尾悦郎という方の話を聞くと、ガウディが最後に見つめていたのは、サグラダファミリアの完成ではなく「人間の救い」だったのではないかという。あの教会は、「人間が何を支えに生きるのか」を見つめ直すための道具だという言葉に、それが今も「作り続けられている」ことの意味を想った。
日本の神社仏閣も、多くは「人を救いたい」という願いから建てられてきたのだろう。法隆寺も大仏堂も、国家護持や人々の安寧を祈り、それを叶えるために、莫大な資金と労力をかけて作られた。しかし今の日本では、国力を傾ける、あるいは多くの国民に期待され支持されるような巨大な建築はもはや成立しない。それで良いのだと思う。
精神や文化の土台にキリスト教が根を張り、生活の中に浸透した西欧では、移民や多様な価値観の導入でそれが揺らいでいるとしても、多数の人々が頼り、祈る先にはイエス・キリストの姿がある。石造りであっても、ガウディは曲線や自然のモチーフを多用し、神の偉大さと人の世の儚さ、その中にあっても永い時を経て変わらないものを表現しているように見える。教会の空間は森の中の荘厳さを模したものだという説が本当なら、彼らは石を積むことで森を作っているのだろう。
日本には飛鳥時代に大陸から仏教が伝来し、聖徳太子ら国の支配者は国家体制の構築のためにそれを利用したが、もとからあった八百万の神への信仰は残り、融合・共存しながら今に至っている。山川草木全てに神が宿るという感覚は、私は今でも多くの日本人がどこかに持ち続けていると思う。そんな日本が今大きな危機を迎えているとすれば、歴史上初めて、戦争でも飢饉でもないのに人口が減っていくということだ。将来への不安、今の生活の余裕の無さ、一時的な快楽への没入・・・。そこには、複雑に絡み合う社会課題への無力感と共に、日本人がずっと持ち続けてきた社会観「先祖から受け継ぎ未来へと続いていく流れの中にいる私達」という感覚、他世代への想像力が限りなく弱まっているという現実があるように思う。
先人の苦労にありがたみを感じる対象は、何も森林だけでなく、橋や道路、ダムや港湾なども全てそうだ。しかしそこに「命」はなく、鉄やコンクリートは掘り尽くせば再生産できない。唯一、森林と木造建築だけが、次世代のための営みとして昔から続き、再生産が可能な、将来に引き渡せる「命」の資源・文化なのではないだろうか。だとすれば、日本における「祈りと救いのための建築」は、地域の材を伐って使うことで森林を健全に保ち、建築資金が地域を潤し循環する、森の再生と暮らしの永続を感じられる木造住宅だと言えるだろう。
複雑に絡み合った糸も、幾つかの結び目を解くことで長い一筋に戻せることがある。近年、クマの出没が地方の生活に影を落としているが、柵の内側に閉じこもるのは逆効果だろう。森と人との関わりを増やし、一時的には厳しい頭数管理をしながら、再び野生動物との適切な距離感を取り戻していく、そのためにも「祈りと救い」の依り代となるような木造建築、それを支える森林産業が地域に生まれて欲しいと思う。
文月ブログ
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