懐疑主義と聞いて、私は当初、何にでも疑いを抱くひねくれた考え方を思い浮かべた。しかし古代ギリシャの哲学者達が生みだした思想はそんなイメージと異なり、絶対的な真理の存在や自分自身に対しても疑いを持ち続ける、謙虚で建設的で穏やかなものだった。二か月に一度参加している大学OBの読書会は、自分からは手に取ることの無い本に出合える貴重な機会だ。「懐疑論―古代ギリシャからデカルト、陰謀論まで」古田徹也著(中公新書) この本を読んで私が感じたことを一言で表すとしたら、「人類の知性は2,300年前から少しも進歩していない」ということだ。
紀元前4~3世紀に生きたピュロンという思想家は多くの人々に敬愛された。後2~3世紀にセクストスが書いた「ピュロン主義哲学の概要」という本が、16世紀に起こったルネサンスの波によってラテン語に翻訳されたことで、モンテーニュやデカルトなど後の思想・哲学界に多大な影響を及ぼした。
その思想をごく簡単にまとめると、以下のようなものだ。ピュロン主義者(懐疑主義者)は、物事の真実を把握できる(独断論)、把握できない(否定論)のどちらにも組みせず判断を保留し、探求や考察を続ける道をゆく。なぜなら、人間より優れた感覚を有する動物は多く存在し、言語能力や知性でも人間が優越するとは限らない、人により物事の感じ方は違い、地域や文化によっても考え方が異なる。五感のうち何かが欠けた人はその感覚を知覚できないのだから、人間が持たない別の感覚もあり得る。父と子、昼と夜のように一切は相対的な関係のもとにある。などの理由から、何かをこれが絶対的な真理だと決めつけることも、そんなものは無いと断定することもできないと彼らは考えたのだ。
しかし、時間をかけて作られてきた慣習や伝統、法制度などに従って我々は生活している。それは言論を可能にする共通の足場であり、日々の生活に習熟するよう努めながら探求と考察を深めるのが、アタラクシア(平常な心・不動心)に至る道だという。この時代、アリストテレスは奴隷の労働によって思索にふけるのが理想と書いたが、ピュロンは自ら家事や商売をし、時には豚を洗ってやったという逸話も残る。そして20世紀を代表する哲学者ウィトゲンシュタインはデカルトら近代の懐疑論を批判し、その主張には古代懐疑主義との共通点が多い。
ピュロンやセクストスは、犬の嗅覚の鋭さや鳥の渡り、蜂や蟻の作る社会の複雑さなどを観察することにより、人間の優越性すら疑った。なのに現代の私達は、日常感覚に反する「対称性の破れ」や、宇宙の84%が姿も見えず正体がわからないダークマターで占められていることを把握できる科学力を持ちながら、「私が真実だ」とうそぶく人間に権力を握らせてしまう。
懐疑主義者は人間を愛するが故に、独断的・独善的な考えを「知的な病い」と捉え、相手の話をよく聞き、あたかも症状に合わせて薬を調合するかのように丁寧に反論を組み立て、相手を論駁するのではなく、自然に自分の思い込みに気づくようにする。そんな地道な実践は、分断ではなく接続を、人々の間の溝を埋める作用を持っている。フェイクニュースが溢れ、陰謀論がまかりとおる現代でこそ、人間の理性を妄信せず、性急さを遠ざけ、焦らず一歩一歩、探求と考察によって社会制度を更新していく思想の価値が再評価されて欲しい、それがこの本の著者の願いなのだろう。
数千年を生きる巨樹、樹木の間に張り巡らされた菌類を介するネットワーク、そういった事象を知るほど、私達は自分の小ささ、無力さに気づく。底知れない自然への畏敬を土台に、他の道はないかと常に疑問を抱きながら、森と人の暮らしとの調和を考察していく、そんな懐疑主義を私も実践していこうと思う。
文月ブログ
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