文月ブログ

アダムスミスが真に目指した経済へ

 今年はアダムスミスの「国富論」(正確には「諸国民の富」)の出版250年だそうだ。私は以前「共感の思想史」(坂本達哉著 岩波新書)という本を読み、アダムスミスという人は、自分の意図を後世に正しく伝えることに失敗したのでは、という考えを抱いていた。スミスは36歳の時に「共感」と「公平な観察者」を基礎に人間の道徳判断について体系化した「道徳感情論」という大著を出版し、道徳哲学者として名声を確立。53歳の時に「国富論」を出版し、現代の自由主義経済を支える論理的支柱のように扱われている。しかしスミスは「道徳感情論」の改訂を重ね、初版時に564ページだった本は、67歳で没する直前の第6版では大幅な追補により974ページの二巻本になった。その情熱を考えれば、「国富論」の主張も、「神の見えざる手」が社会にとって有効なものとなる背景に「公正」や「道徳」という共通の価値観が成立していることが前提だと理解するのが自然ではないだろうか。
 その考えを強く補強してくれたのが、先日の朝日新聞「異論のススメ」での京都大学名誉教授・佐伯啓思氏の寄稿だ。佐伯氏によれば、「国富論」の主旨が「自由な競争が経済発展をもたらし、善き社会秩序を実現する」とされているのは大いなる誤解あるいは曲解であり、これが今日のグローバル経済の混乱の発端ともなっているという。
 スミスが自由競争を説いた時、批判していたのは、一部の商人が政府と結合して世界規模の投資や貿易による巨額の利益を得るという「重商主義」だった。これに対し、スミスは「普通の人々」による「労働と生産こそが国富だ」と主張した。「一国の富は、金融取引ではなく、生産活動による」と強調し、金融市場の投機的な利益などは「想像上の富」に過ぎないとした。スミスは国内の土地と労働という確かなものこそ重要だと、政府と大商人による海外での覇権競争、資本主義的な富の拡大を批判した。にも拘わらず、20世紀の米国の経済学では、スミスが問題とした「金融」に対する「物の生産」、「グローバリズム」に対する「国内経済」の重視といった論点は一切排除され、自由な市場競争の拡大こそが人々の利益と富の増進をもたらすとされたのだそうだ。そうしてみると、意図が正しく伝わらなかったのはスミスのせいではなく、スミスの主張を自分達に都合よく切り取って広めた経済界の罪だということになる。
 佐伯氏は、「市場経済」と「資本主義」は区別すべきだと説く。「市場経済」は人々の自由競争が市場の調和を実現するという思想に基づくが、「資本主義」はあくまで「資本」の増殖を目指す運動で、市場の調和を目的とせず、期待収益の大きい分野に流れて、むしろ市場の秩序を破壊する。「資本」が無限の拡張と成長を求める限り、国家間の経済競争や覇権競争は激化していく。スミスが現在の社会状況を見れば、恐らく痛烈に批判していたに違いない。
 世界を覆う資本主義の巨大な力には敵わないとしても、できることはあると私は思う。「普通の人々」による「国内の土地と労働」による富を最大化し、そのノウハウを多くの人々と共有することだ。少なくとも日本では、安全保障上の懸念や働き方改革により、生産部門の国内回帰、それも大量生産長距離輸送ではなく分散型のサプライチェーン構築が指向されている。半導体のような集中投資を必要とする分野は別として、例えば住宅などは部材の供給を一定の地域内に求める動きが強まるのではないだろうか。金利のある世界、住宅着工が縮んでいく状況では、海外から木材を大量に購入して在庫するコスト・リスクは跳ね上がる。先端技術を用いて地域の森林資源と設計図書をマッチングしオンデマンドで生産する、それが最も合理的な選択になる未来は、意外とすぐそこまで来ているのかもしれない。

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