文月ブログ

木々に寄せて-その10「楠」

楠と聞くと、その漢字からして温かい地方の樹木というイメージですが、関東では街路樹に多く、私の住む街も、勤め先のビルの傍にも、楠の武骨な幹がそびえ立っています。時に、丸坊主に見えるほど強度に剪定されることがありますが、数か月後には再び枝を伸ばし、緑の葉で覆われ、その生命力の強さに感嘆します。常緑広葉樹ですが、葉の寿命は約一年で、春先から初夏にかけて赤みがかった新芽が出ると、古い葉は一斉に落葉するようです。
前回、クロモジの香りの鎮静効果について書きましたが、楠には実際に医薬品として用いられる成分があり、それが昔、強心剤として使われ「カンフル剤」と呼ばれていました。それ以外にも、木材や枝葉から作られる樟脳には消炎鎮痛や防虫・防腐効果があり、江戸時代には薩摩藩などで盛んに作られ、輸出されていたそうです。そればかりか、幕末には土佐藩の岩崎弥太郎がその価値を知って樟脳の生産と輸出を進め、得られた資金が、坂本竜馬らの活動を支えたとも言われています。
薩摩武士と楠と聞くと、私には忘れられない物語の記憶があります。江戸時代の宝暦4年(1754年)に、幕府が薩摩藩に命じて濃尾平野の治水事業をさせた際、その理不尽と困難さに抗議して51名が自害、赤痢により33名が病死したとされる「宝暦治水事件」を題材にした、小中学生向けの本がありました。木曽川・揖斐川・長良川の三河川は複雑に合流・分流し、そこに住む住民は毎年のように洪水に苦しめられていたのです。幕府はその三河川を分ける治水事業を、自分達の指揮監督下で薩摩藩に行わせる「手伝普請」としました。当時の薩摩藩に経済的な余裕は無かったのに、嫌がらせのような命令を受けた上、地元の住民や藩主の利害が対立し、工事が中々進みません。更にやっとできた部分がまた水害で流されるなど、工事は困難を極めました。そんな薩摩武士が鹿児島から岐阜にやってきた時、楠を見つけて「ここでも楠が育つのでごわすな」と感慨深く述べた言葉が心に残りました。なぜ自分達がこんな目に合うのかと、割り切れない思いを抱えてやってきた武士達が、故郷に多い樹木を見たことで、「ここの住民も自分達と同じ人間だ、彼らが洪水に苦しんでいるなら、それを助けるのは武士の勤めだ」という思いを抱くようになっていった、確か本にはそのように書かれていたと思います。多くの薩摩武士が、抗議のためや責任を取っての自害に追い込まれる中、一年半をかけた難工事はようやく終了し、流域の多くの村々がその恩恵を受けました。しかし、薩摩藩の費用負担は現在のお金にして300億円とも言われ、そのことが、奄美諸島の住民に対し、サトウキビの栽培と黒糖作りの苦役を強いることにつながったとも言われています。幕府への強い反感も子孫に伝えられ、幕末の動乱に結びついたのでしょう。
岐阜県のホームページによると、住民は洪水の被害が減ったことを喜び、工事に当たった人々を「薩摩義士」と呼んで敬ったそうで、岐阜県と鹿児島県は昭和46年に姉妹県の協定を結び、40年目の平成23年にも改めて交流を深める盟約を確認しています。楠は樟脳という輸出品になって薩摩藩の財政を助けましたし、かつては防虫剤やセルロイドの原料としても、日本人にとって身近なものでした。それらが化学合成されるようになった今、私達が楠を目にする機会は、街路樹として涼しい木陰を作る姿、あるいは各地にある神社のご神木でしょう。古くから、その生命力の強さと特殊な成分のために、人の手によって植えられ、育てられてきた楠は、人と縁の深い樹木として、これからも私達を見守り続けてくれると思います。

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