文月ブログ

森を巡る旅-言葉の探求その9「書籍への挑戦②」

「いい子」でいたい自分から脱却しよう。その決意を固めた私は、「旅を終えて」の後半で、現状に甘んじて変化を嫌う態度に対し、はっきり決別すべきだと表現しました。今までの私なら、自分を棚に上げて何を言うか、と批判されるのを恐れ、中途半端な物言いしかできなかったでしょう。昔から私はよく人に「優しい」と言われましたが、それは自分に厳しくできないから他人にも甘くならざるを得ない、弱く消極的な態度に過ぎませんでした。本当の優しさは厳しさの奥にあるものです。衝突を嫌って自分の感情を抑え込む、そんなことを繰り返してきた自分のままでは、人を頷かせる文章など書けないことを、私はようやく理解したのです。自分をさらけ出し、それを突き放して客観視する作業、書籍の原稿を書くことは、その行為への挑戦でもありました。
「旅を終えて」の初稿を書き上げた頃から、共同執筆者の原稿も上がり始めました。私はそれぞれの冒頭で「オコシ」と呼ばれる紹介文を担当し、その内容を分かりやすく、読みたいと思わせるように、つまり「読者に刺さる」文章を書かなくてはなりません。ここでも最初は、執筆者への気兼ねもあり、そつなく綺麗にまとめることを考えてしまう自分が顔を出しました。しかしありがたいことに、塩地氏は一読して「つまらない」と言い、もっと文章を深く読み、執筆者の人柄に迫って書くことを厳しく要求したのです。落ち込んだものの、気を取り直して再び原稿を読み込んだ私の頭に、ようやく自分なりの理解と、執筆者の人間性を織り交ぜた、納得のいく表現が降りてきました。原稿の質と執筆者との接点の多さ、それが、自分の中に生まれる文章のレベルにも比例します。そんな気付きを経ながら、私は何とか6つの章の「オコシ」を書き上げました。
原稿を書いている間にも、全体の構成に一部変更があり、私は「旅を始めるにあたって」という章を書くことになりました。確かに、なぜ私がこの本に登場するのか、それを読者が知らないままでは、私の紹介文がスッと頭に入ることはないでしょう。塩地氏の「はじめに」を受け、読者がその先を読むかどうかを決定づける大事な章でもあります。氏の迫力ある文章に比べ、自分の筆力の不確かさに不安がよぎりました。
実際に書き始めると、自分が何者か、これまで何をしてきて、この本で何を訴えたいのか、それを説明する難しさに直面しました。自分の抱いた感情を紐解くと、子供の頃の体験にまで遡ることになります。私小説の様相を呈しますが、読者はこんなおばさんの生い立ちを知りたいわけではありません。論旨の展開に最低限必要な事象に絞り、自分の経験や感じたことが、次にどういう行動につながったのかを整理していきました。しかし苦労して書きあげたものの、ここでもまた、塩地氏の叱責が待っていたのです。曰く「読者は作家の腸(はらわた)が読みたいのだ」とのことでした。「いい子」であることはやめた私ですが、まだ自分の中にある欲望、つまり承認欲求や成功願望にまで踏み込んではいなかったのです。そこまで自分の深層心理を掘り下げ、事実を率直に記すことで、次第に文章の説得力が増していったと思います。更に、当初こだわった修辞的な比喩を捨て、素直に頭に浮かんだ言葉を重視することで、肩の力が抜けた、飾らずとも人に伝わる文章になっていきます。10回近い書き直しの末に、ようやくその章を書き上げることができました。
明日に続きます。

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