文月ブログ

木の命への作法

ヨーロッパの石造りの家は何百年も使い続けられている。地盤沈下やファサード(建物正面のデザイン)の重みで壁にヒビが入っても、400年持ったのだからすぐには壊れない、と意に介さず、補修をしながら人は住み続けている。地震や台風の無い国をうらやんでも仕方がないが、日本のように一生に一度の買い物が子孫に遺せる資産にならないのはやはり残念だ。
全国の空き家は1000万戸とも言われ、壊すのはもったいないと多くの人が言うが、ではあなたが住みますかと問われれば二の足を踏むと思う。家全体が撓んで開け閉めに苦労する建具、壁が薄く光熱費のやたらとかかる家は、余程の思い入れでもない限り、耐震補強やリノベーションの費用を誰も負担しないだろう。一部の不動産事業者やNPOなどが空き家の活用に取り組んでいて、その意義は理解できるが、使える家はほんの一部に過ぎない。 人は老いると、権利意識だけは強く残っても、義務や責任の履行能力は落ちていく。放置された空き家を誰も相続せず、危険な状態になって解体費用を自治体が負担するというニュースを見ると、今ある国の借金や将来の社会保障費だけでも大変なのに、こんな負の遺産まで将来世代に遺すのかと暗い気持ちになる。
私にとって住宅とは?と考えた時、最初に頭に浮かんだのは細胞膜だ。ネットで調べると、「細胞は全ての生命体の構造と機能の基本的な単位」だそうだ。命を維持して次世代に伝えるための、細胞核やミトコンドリアなど多くの器官が、細胞膜によって他と分離・保護され、その機能を果たしている。社会を構成する個人や家族が、そこで休息し、栄養を摂り、学んだり娯楽を楽しんだりしながら日々を重ねるための保護膜、それが住宅なのだと思う。
ただ、動物の細胞は数十億年の進化を経て、老化して役割を終えたら死滅し、残骸が生きている細胞の邪魔をすることはない。一方、私達の社会は未熟で、多くの命を守り、暮らしを支えてきた住宅が古くなった時、それを速やかに分解・排除する生理を獲得していないのだ。
その代謝を促すホルモンは一体何だろう?日本人は責任という言葉を、人を非難する際には多用するけれど、自分が果たすべきものとして身近に捉えてはいないように思う。それよりも、お作法とか礼儀とか、人と接する際の肌感覚のルールの方が、社会を円滑に回すビタミンのように機能している。それならば、木造住宅が木の命を頂いたものであること、だから放置して朽ちるに任せるのは命への作法としてどうなのか?という言い方の方が、都会の街路樹を守ろうと署名する人達に響くのかもしれない。
木は私達動物と違い、死んだ細胞がそのまま残る命の記録媒体だ。かつて長い間、日光を求めて梢を突き出し、枝葉を伸ばし、数えきれない風雨に晒され、山の斜面に根を張って成長を続けた命。私達が木材に温もりや安心感を覚えるのは、セピア色の写真の奥の祖父母の微笑みのような、良く生きた証として差し出された贈り物だからではないだろうか。私は最近そんなことを考えている。

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