クスノキは関東以南の太平洋側を中心とする暖地に自生する常緑広葉樹で、台湾や中国南部、ベトナムにも分布しているそうだ。千葉では街路樹として植えられることが多く、日常的に目にする木だ。日本書紀にはスサノオノミコトが眉からクスノキを作り、髭から作ったスギと共に、これで船を作れと命じたと書かれている。分布域が異なる事と、スギは通直性、クスノキは耐久性が船に向くと考えられたのかもしれない。
先週日曜日の朝日新聞に、「クスノキに託した祈りの連鎖」というコラムが掲載された。1ページの三分の一を占める大きな記事で、先日亡くなった東野圭吾氏の小説や、福山雅治氏の楽曲を取り上げ、人々がクスノキに込めた思いが受け継がれて欲しいといった趣旨のことが書かれている。しかし挿絵に使われた絵はどう見ても針葉樹で、私は文中に何か隠された意図があるのではと何度も読み返したが、そんな記載は見当たらない。挿絵の但し書きに「ミナ ペルホネンの生地から」と書かれているのも珍しく、ネットで調べると、ファッションブランドが通信販売するファブリックに同じ柄のものを見つけた。紹介文には、デザイナーがフィンランドの森を思いながら描いたとあり、やはり針葉樹だろう。
私は長く朝日新聞を購読しているが、昔と違い、今では記事を批判的に捉えることも多くなった。相手が権力者だからといって、その言動をあげつらう様は不快だと感じるので、同じ事をするつもりは無い。クスノキについて書いたコラムに針葉樹の挿絵を載せたこと自体は単なる間違いだろう。ただ、関わった人だけでなく、記事を読んだ多くの人がそのことに気づかないとしたら、それは少し残念だ。
マダイやヒラメは白身魚、マグロやカツオは赤身の魚、私達がそれを知っているのは、自分の財布から対価を払い、自分の舌で味わう食べ物だからだ。樹木の名前を知らないのは、それが自分の生活に何の関係もないからだろう。悲しいことに、スギとヒノキだけは花粉症を引き起こす原因として多くの都市住民に知られているけれど。
クスノキから作られる樟脳は、江戸時代に薩摩藩が製造し、金・銀に次ぐ重要な輸出品だった。かつては強心剤として用いられたため、camphor tree=カンフルの木と呼ばれた。樟脳には血行促進や鎮痛・消炎の他、防虫・防腐効果もあり、大事な衣服を守るための虫よけとして身近なものだった。私の大好きな「ナルニア国物語」の「ライオンと魔女」は1950年に出版されたが、主人公の少女が物語の核となる衣装ダンスを開けた時、樟脳玉が転がり出たと書かれている。イギリスにクスノキは無いので、日本や台湾で作られたものが海を渡ったのだろう。
ここまで考えて、挿絵が単なるイラストや写真ではなく、衣服や生活用品を作る生地であることにハッとした。人は服を縫う時、着る人への思いを手先に込める。それは祈りを託す、という行為そのものだ。樹形は違っても、挿絵を選んだ人の意図はそこにあったのかもしれない。
熱海の木宮神社など、関東以西の各地に、古くから信仰の対象とされてきた大クスがある。ゴツゴツした幹、大きな空洞、不釣り合いなほど瑞々しく重なり合う青葉。生命力の強さで長く人の暮らしを見守ってきた彼らは、私達の間違いも深読みも、きっと大らかに受け入れてくれるだろう。
文月ブログ
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