文月ブログ

森と生きるために-大工の復権①

木は生きていて、似たものはあっても、同じものは一つもありません。だから木材は、見た目も強度もバラバラ、扱いを間違えれば曲がったり反ったりする、厄介な材料です。それをうまく見極めて、昔から建築物を建ててきたのが、大工さんでした。もとは高い社会的評価と誇りを持っていたはずの職人集団が、近年は現場作業員の身分に落とされ、その技術に相応しい対価を得られない状態が続いていたと聞きます。
大工の歴史に詳しい塩地氏によると、大工の権勢のピークは、数々の城を築き、天下を取った豊臣秀吉の時でした。その後の徳川幕府は、世を乱す動きを封じるためと、木材資源の枯渇もあって、城郭の建設を禁じました。そして寺社仏閣の建立や修復に関わる職人は宮大工と呼ばれましたが、それ以外の職人は市中に散らばり、町家を建てたり橋を架けたりして暮らしていたそうです。塩地氏はその人々を町大工と名付けました。明治維新の後、新政府は天皇を中心とする国作りを目指し、国が決めたルールを、全国一律に適用していきました。その際、建築については西欧の技術が持ち込まれ、採用されたのです。木造軸組みの伝統工法は、口伝で伝わってきたため体系化されておらず、大工の知識や技術は権力側から価値の低いものと見なされてしまったのでしょう。
しかしその後も、地域の木材を使う住宅に関しては、大工の技能が生かされました。日本は世界で唯一、在来工法が2×4(ツーバイフォー)と呼ばれる工法に負けずに生き残った国だと言われています。2×4は、規格化された柱や壁板を使い、箱のように面で建物を支える工法で、標準化が進んでいるため、短期間で建築技術を身に付けられるのが特徴です。しかし、設計の自由度が低いなどの理由で、日本では在来の木造軸組み工法が今でも多数を占めているそうです。それが可能だったのは、木を使いこなせる大工がいたからでした。
戦後の復興やその後の経済成長の時代には、多くの人が住宅を欲しがり、アパートやマンションの内装も含めて、大工の仕事は多く、収入も安定していたことでしょう。しかし人口の伸びが止まり、低成長が長く続くようになると、状況は変わりました。プレカットという、大工の手刻みの技を不要にする技術の浸透もあり、次第に大工は追い詰められていきました。
今では、相当の技術を持った大工であっても、支払われる報酬は一日あたり25,000円前後が精一杯、待機期間や雨の日もあり、毎日働ける訳ではないので、年収は600万円程度だそうです。ここから社会保険料や税金を納めるのはもちろん、会社勤めと違い、機械の購入費用や現場への移動経費・駐車料金も全て自前ですから、一人で家族を支えるのはかなり厳しいと想像できます。
しかも、住宅建築の現場では、更に恐ろしい事が起きていました。断熱や耐震のために壁は厚く、重くなり、サッシは何層ものガラスや樹脂製になって、とても一人では持ち上げられない重量になったのです。施工方法も複雑になり、特殊な用具をその都度買う必要が生じるなど、多くの負担がのしかかる構図になっていました。日本の山と、大工の境遇はとても似ています。立場が弱く、口答えしない(できない)ために、ずっと負担を負わされ続けてきたのです。そんな山にも、大工にも、救世主となる存在が、ようやく現れました。それが大型パネルです。その理由を説明しましょう。
明日に続きます。

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