今年89歳になる母は、膝を痛めていてゆっくりとしか歩けない。それでもかつて参加していたグラウンドゴルフの仲間から声をかけられ、スナックでのカラオケや温泉旅行によく出かける。町のシニアの集まりでカラオケの講師を10年務め、先日勇退したばかりだ。何人ものお百姓さんからしょっちゅう野菜を頂き、近所にはお惣菜を多めに作ったからと差し入れてくれる方や、暑い中買い物が多変だろうと、お孫さんの運転する車でショッピングモールまで送迎して下さる方もいる。遠方に住む私と妹達は、毎朝の安否確認メールでそのような親切を知る度に、ありがたさに心の中で手を合わせ、報いる術が無いことを少し後ろめたく感じる。
近所に住む耳の悪いご婦人が、心臓発作での入院から自宅に戻られたと聞いたので、恐る恐る訪問してみた。最初は胸の痛みで機嫌が悪く、仕事をしながら面倒を見ている息子さんへの不満を口にし、訳のわからない話をされていたが、訪問介護による体のケアや薬が効を奏したのか、一か月ほど経つと徐々に表情が落ち着いてきた。認知症も改善して私の名前を思い出し、食事の用意など家事をしてくれる息子さんに感謝する言葉も聞かれるようになった。以来、週に2~3回の訪問を続けている私に、息子さんは恐縮して毎回すみませんと言う。私はしたいと思う事をできる範囲でしているだけだし、ある事に気づいてこう続けた。「田舎の母が近所の方にしてもらっている親切のお返しを、私はお母様に少しばかりさせて頂いているのかもしれません。優しさの順送りですね。」
その翌日、近づいてきた救急車が家のすぐそばで停まったのに驚いて外に出ると、暑さで路上に倒れた人がいたらしい。それを見つけて通報したのは、ウォーターサーバーの水タンクを交換しに来た青年だった。近所の主婦が、もし配達が遅れた事を会社から責められたら、私が証言するからね、と力強く表明する。自分や家族の暮らす環境が優しさに満ちているのは、何と幸せなことだろう。
世界には飢餓や恐怖に晒される人が数多くいるが、私にできるのは非営利組織への寄付くらいだ。しかしもう一つ、大きな意味を持つ行為があるとしたら、森の更新を手伝うことかもしれない。昔は人の一生が短くて、自分の植えた木が育って太くなるまで、見届けることは少なかった。昔の人々は、子や孫の世代のために木を植えて育てたのだ。今、私達の寿命は延びたけれど、そのせいで、命の順送りに無頓着になってはいないだろうか。
伐採跡地は、最初は土がむき出しでも、しばらくするとササや雑草に覆われて目立たなくなる。そのまま放置しても数百年後には再び森になると言うが、それでは木を植えて育ててくれた祖先の思いが寸断されてしまう。木を伐ったらまた植える、それは先人の思いを、森の命としてリレーしていくことだ。優しさの順送り、その幸せを知る人間だからこそ、森の命の順送りにこだわり続けていきたいと思う。
文月ブログ
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