文月ブログ

地域に遺すべきもの

能登震災被災者ための応急仮設に、木造モバイル住宅が初めて採用されている。立教大学の長坂先生が長年提唱して来られた、十分な耐震性・断熱性を持ち、かつ必要なら移設ができる木造のユニットを組み合わせたものだ。災害時の応急仮設というと、建築現場の仮事務所のような軽量鉄骨の建物か、トレーラーハウスが主流だった。しかし金属のプレハブは劣悪な住環境であり、トレーラーハウスは道路条件の良いところにしか運べない。その点、長坂モバイルは大型パネルの技術を使い、2トントラックでも運べるパネルを組立ててユニット化し、それを連結して大きな住宅にすることもできるし、ユニットごとに分解して別の場所に移設することも可能という、柔軟な特性を持っている。しかし、その構想は中々日の目を見ることなく、ウッドステーションの塩地会長と益田建設の鈴木氏という実務に秀でた協力者を得て、初めて実験の日取りが決まったのは昨年暮れの30日のことだった。その2日後に震災が起き、1月の末に行われた実験が見事に成功したことで、その動画を見た被災自治体の担当者が、これまで全く実績の無かった、長坂先生が主催する日本モバイル建築協会に応急仮設の発注をしたという流れだ。実験からわずか3か月で大量生産や現地施工にこぎつけた住宅産業のネットワークと応用力の高さは、素人の私から見ても感嘆すべきものだと思う。
しかし最近、長坂先生はまた新たな壁にぶつかっているらしい。日本の法律上、被災地の住居政策は仮設を経て本設に移る二段階方式の制度になっており、それぞれ一人当たりの面積などが厳しく定められている。住宅の面積を仮設用の広さにすると、そのまま本設への移行はできず、最初から本設の広さにすると、入居者間で不公平が生じると行政の許可が中々下りないという。他にも、本設なら伝統的な景観を守るために三角屋根と瓦葺きが必要だとか、厳しい条件をいくつも突き付けられているそうだ。伝統的な街並みを守る意義は認めるが、実際には能登地方で瓦の生産はほぼ行われておらず、今、屋根に瓦を載せようとすれば遠方から運んで来なくてはならない。観光資源として必須の場所は別として、どこまで瓦に固執する必要があるのだろうか。
景観を守るための規制を唱えているのは、有識者と呼ばれる学者の方々らしい。伝統的な街並みを残すことの重要性、それが地域の人々の心の拠り所となり、絆を強めることに異を唱える人はいないと思う。しかし、それに拘るあまり地域への帰還が何年も遅れるとしたら、特に若い人々は避難先で新たな仕事・暮らしを築き、能登に戻ることは難しくなる。
災害は、日本人に否応なく「終わり」を突き付ける。大量の空き家の存在など、この社会がどこか「自分で始末をつける」ことが苦手なのも、いつか突然やって来る「終わり」への適応の結果だと考えると納得がいく。能登の古い木造家屋は、廃れた産業の最後の遺産の重みで潰れたのだ。ならばこれから遺していくべきなのは、木地を挽き、漆を塗り重ね、模様を施す人々が生み出す、今生きている産業=輪島塗だろう。彼らの住まいと工房が、一刻も早く能登地域に復活して欲しいと思う。
何を諦め、何を遺すのか、諦めるものを減らすために先端技術をどう生かすか、その思考と選択を迫られる将来世代へ、少しでも足掛かりになるような仕事に、私は光を当てていきたい。

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