文月ブログ

上流と下流の歴史

上流と下流、これは単に流域の位置を表す言葉ではなく、社会的な地位や豊かさを表す言葉でもある。昔、川の下流は湿地が多く、人々は水の便が良い、中流より上の地域に住み着いた。水害は分家の災いという言葉もあったらしい。経済力のある本家は水害の心配が無い場所に居を構え、分家の人々はより下流に住むしかないので、水難に会いやすかった。そればかりか、稲作に必要な水は上流の人々が先に取っていくので、雨の少ない年は下流にまで届かない。少しずつ田の水を減らして下流に流してやるかどうかを決めるのは上流域の人々で、それは彼らが下流の民の生殺与奪の権を握っていたに等しい。かつてはそれほど苛烈な分断が存在していた。
家康が河川の付け替えや埋め立てで湿地だった江戸を大都市に生まれ変わらせたように、大規模な土木工事によって、下流は次第に住みやすい場所、生産効率の高い土地になっていった。明治維新後は海外から大量の物資が運ばれるようになり、高層ビルや大規模なコンビナートも海沿いの平地に作られた。上流に住む人は少なくなり、過疎にあえぐ地域も増えた。地位が逆転したのだ。
最近、都市部の洪水を防ぐために、上流・中流の田に水を貯める「田んぼダム」という構想が提唱され、少しずつ広がっている。農家に一方的な負担を押し付けるのではなく、恩恵を受ける都会の人達が農作業の手伝いをするような交流が継続すれば、分断の歴史を乗り越え、流域を柱にした共同体意識が芽生えるかもしれない。それは山の樹木を流域の住宅として活かすという、森と人のつながりの復活にも役立つのではないか。そんなことを夢想している。

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