文月ブログ

森に風を入れる

私達が漠然と「日本の自然」だと思っている風景は、太古の昔から、人と自然がせめぎ合いながら形作ってきたものだ。日本列島は4つのプレートがぶつかる活発な造山運動によって生まれた。乾燥しがちな中緯度にありながら、ヒマラヤ山脈で流れを変えられた気流のおかげで豊かな雨に恵まれ、水は山を削って肥沃な土を運び、裸地も短期間で森になるように、世界有数のバイオマス成長力を持つ。それは一方で、人が手を加えなければ、道は数年で塞がり、森は立ち入りを拒む藪になってしまうリスクがある事も意味する。
「里山物語」で知られる自然写真家の今森光彦氏は、自然写真になぜ人や農機具が写っているのか、と良く聞かれたそうだ。氏はこう答えた。「人も自然の一部だから」と。人が自然の力を安定的に利用し、その結果として生み出された風景を「美しい」と感じるように、私達の感性は育くまれてきたのだろう。
刈り入れを終えた田畑には、落ちた穀物を求めて多くの渡り鳥が舞い降り、猛禽類の狩りの場所にもなる。
京タケノコを栽培する竹林は、人が地面に藁を敷き、土を被せるので、カラリと開けて明るく、雑木林のように様々な花が咲くという。
アカマツの林は、放っておけば自らの落ち葉で富栄養化し、他の樹木が優先するようになって遷移していく運命だ。しかしマツタケ採りの名人は、根本の松葉を掻き集めて畑の堆肥にすることで、アカマツと、「シロ」と呼ばれる菌根菌の共生を助け、その恵みを受け取っている。
東洋医学や風水では、「気」の流れが重要視される。人工林や庭園など人が作った森は、手を入れなくなると空気が淀み、「気」は滞留してしまう。薪炭として活用されてきた広葉樹も、大木になると虫への耐性を失って枯れることが多くなるように、人間の活動は、自然にとっても「気」を滞らせることなく、命を常に新しく保つ役割を果たしていたのではないだろうか。鹿や熊の被害は、人が森への関与を減らし過ぎた結果生じた「淀み」が遠因なのかもしれない。
広大な森林に再び風を入れ、人が森との調和を取り戻すためには、レジャーだけでは不十分だ。木を伐って使い、また植えていく産業が根付いてこそ、継続的な関りが可能になる。拡大造林で増えた森を全てまた針葉樹にとは言わないが、単に放置したままでは広葉樹の森に戻るのに数百年かかることも考慮しなくてはいけない。
日本の自然の多くは、双方が利を得る「相利共生」になるような関係を、人が選び続けてきた結果残ったものだとも言える。そのことに気づかないまま離れてしまえば、人も自然も傷つき、弱まったり暴走したりする。森と向き合い、活用し、また植えて育て、「美しい」と感じる風景を作っていくことは、私達の生存に欠かせない行為なのではないだろうか。
こわばった体を動かそうとすれば痛みが走る。もう諦めているから触らないでくれという声もあるだろう。それでも節々に温かい手を当てれば「気」の流れは蘇る。デジタルの波を血流にして山間地域に栄養素を行きわたらせ、先端技術という鍵を使って錆びついた窓を開け放ち、森に新しい風を入れよう。

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