所要で神奈川に行く途中、錦糸町で降りる人々の中に競馬ファンらしい男性を見て、かつて訪れた岡山の吉備中央町を思い出しました。そこにある乗馬クラブでは、引退した競走馬を引き取って、普通の人が乗りこなせるよう再訓練(リトレーニング)していました。
競走馬は引退後、強ければ種馬としての余生がありますが、そうでないほとんどの馬は、一旦は各地の乗馬クラブに引き取られても、その後多くが殺処分され、馬肉になってしまうそうです。ブラッドスポーツと言われるほど血統が重視され、多くの馬は人間の都合による掛け合わせで生まれます。両親が強い馬でもその子供が速く走れるとは限らず、事故や病気もあって、3~4歳で引退する馬もいるそうです。しかし競走馬は闘争心が強く、人間を乗せてゆっくり歩く事は苦手だったりします。その結果、維持が難しくなると処分されてしまうようなのです。その乗馬クラブでは、元競走馬がレースのための生活から離れて、セカンドキャリアを築けるよう訓練していました。
更に注目したのは、馬房(ばぼう)の清掃を、知的障害を持つ人達が担当し、明るく働いていた事です。敷き詰められたおがくずの中の、落ちた馬の糞と尿で固まった部分をスコップですくい、外に出します。そして床のおがくずの上下を返すように空気を入れてふんわりさせます。頭から靴の中まで舞い上がったおがくずにまみれ、忍耐と体力のいる仕事ですが、見学者がすぐに音を上げる様子を尻目に、誇らしい笑顔で作業を続けていたのが印象的でした。製材で出るおが粉は、多くが畜産やこのような乗馬クラブに販売されます。木材産業が盛んな真庭市はすぐそばですから、そこから来たものかもしれません。勝者と効率が一番の社会からこぼれ落ちた馬と人間が、共に輝きを取り戻せる場所なのだと感じました。
リトレーニングの体験もさせてもらいました。馬はあんなに体が大きくても、基本的に人間を怖い存在だと思っているそうです。柵で囲まれた円形のコースの真ん中に立ち、馬に繋がれたロープの先を掴んで、鞭で地面を叩いて走れ、と合図します。すると馬は柵に沿ってゆっくりと走りだし、更に地面を強く叩くとスピードを上げます。自分が馬を操っている、とても不思議な体験でした。そして方法は忘れましたが、指示通りに馬が歩みを止めた後、私は調教士の許可を得て馬に近づき、その首に抱きつきました。なぜか馬への愛おしさが体の奥底から湧いて来て、涙が出てきます。ホースセラピーという精神療法を聞いた事がありますが、確かに馬と人間は、何か特別な回路を使って魂で交信できるような感覚があることを知りました。
馬に木材を運ばせる馬搬(ばはん)という搬出法を見学したことがありますが、操縦者が馬の性質を理解して、気分や体調に気を配り、最初はあまり重い荷を引かせないなど、生き物としての接し方に苦心していたのを覚えています。とてつもない重量の橇を引くばんば馬など、乗り手との間にどれ程の信頼が必要なことでしょう。与えても与えられるとは限らない、それでも愛情を注ぐ関係は、子育てのようなものかもしれないと、子供のいない私も想像してみます。
馬が森で働き、公園などでも気軽に触れ合えるようになれば、殺処分される馬は少なくなり、人間にとっても幸せなはず。そんな未来がいつか現実になることを夢見ています。
文月ブログ
コメント