最近、以前よりよく本を読んでいる。通勤してフルタイムで働いていた頃に比べれば、在宅で自分のペースで働く今は格段に時間の余裕があるからだ。知識はAIに聞けばすぐ教えてくれるし、YouTubeには細かい分野ごとに専門家が語る動画が溢れていて、それを見る方が遥かに効率的に情報収集できるという人もいる。けれど私は単純に読書が好きだし、もともと弱いおつむの筋力が少しは鍛えられるのではという淡い期待も捨てられない。
以前、朝日新聞の社会季評で東畑開人氏の書かれた文章が心に響いた。曰く、「本を読んでいる人は心の中でもう一つの心と親密な語らいをしている。更に、その内的対話を可能にする三つ目の心があり、それは社会から離れ、一人で本を読む時間と空間を保護してくれる(誰かの)心だ」という。「そこに逆説があり、一人になる=社会から離れるためには、それでも孤独にならないようにつなぎとめてくれる他者が必要なのだ。そのような肯定を背景にして、社会と対峙しうる「自分」がかろうじて生まれてくる」と。
子供の頃の私にとって、守ってくれる他者は母であった。本を読むのがただ好きだった。しかも本を読んでいれば、家の手伝いや勉強をしなくても仕方なく許される感じがあり、私は本の世界に逃げ込んでいた。そのつけは後でたっぷり支払うことになるのだが、自己を客観的に顧みる視点を得られるようになったのはやはり読書を通してだと思う。苦しい生活の中でも少年少女世界文学全集を子に買い与え、そこに没入する時間をくれた母の存在の大きさを、改めて思い起こした。
東畑氏はこうも書いている。「読書が、社会からいったん離れたところでなされる個人的な営みであったとすれば、読書離れとは、個人的なるもの全般と。そしてそれを守る力全般が危機に瀕している兆候でもあるのではないか。」
常にSNSが気になり、自分から会話を打ち切れないといった若者は、社会と対峙しうる「自分」を育む空間や時間を持てるのだろうか。遠くから見守る視線や気配を感じながら、本の世界で自分との内的対話に没入する、一人でいても孤独ではない時間の幸福感は今の私の基礎になっている。SNSにしか居場所がない、あるいはAIにしか心を開けない、そんな人にも彼らなりの喜びや充実感はあるのだろうが、本を読む楽しさを知る人はそれだけで幸福だと思う。AIの時代だからこそ、簡単には吞み込まれない「自分」を私は生みなおしたい。
羊皮紙や和紙に比べれば、現代の印刷物の寿命は短いかもしれないが、建築と同じように「本」も人間の命を超えて遺り得る、「樹木」との合作だ。電子書籍が増えても、紙の本が無くなることはないだろう。日本人と森の長い物語の中に、数行でも記載される何かを成せないかと、秋の夜長にページをめくりながら、私は夢の種を探している。
文月ブログ
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