「森のことづて」という小冊子がある。しまね自然と環境財団が平成25年に発行した、地底に眠る縄文の森・三瓶小豆原埋没林(さんべあずはらまいぼつりん)に関する本で、10年ほど前、見学に訪れた際に求めたものだ。ここ数か月、私の脳内で芽生え、根を下ろした古代日本人の暮らしや祈りへの思い、それについて書いてきたブログの最後はやはり、出雲に眠る縄文の森の話で締め括ろうと思う。
本州の西半分と四国は火山が少ないエリアだが、島根県は大山や三瓶山など、突出して火山の多い地域で、それは旧石器時代の黒曜石や、縄文から平安時代まで続いた玉造の材料となる碧玉・メノウなどの産地であることと深く関係している。そこに超自然的なものに対する信仰の礎が生まれ、古事記や日本書紀の国生みの舞台、出雲国風土記の国引き神話のもとになっていると考えられる。その場所で、4000年前の三瓶山の噴火に伴う火砕流によって地下に閉じ込められ、現代に蘇ったタイムカプセルのような森が、先述した三瓶小豆原埋没林だ。
三瓶山の北嶺、太田市小豆原地区の地中に太い樹木が埋もれていることは昔から知られていて、圃場整備などの際に掘り出され、状態の良いものは木材市場に持ち込まれ高値で取引されることもあったようだ。1990年代、地上に頭を出した巨木の写真に注目した三瓶火山の研究者が私費を投じて調査し、島根県を動かして本格的な発掘が行われた。2000年には複数の立木と火砕流で流された多数の倒木が掘り出され、発掘場所はその後埋没林公園として整備された。深さ13.5メートルの地下展示室に降りていくと、最も大きなもので高さ11メートル、直径は先端部で1.2、根本で2メートルにも及ぶスギの巨木が、今も立木の状態で保存されているのを見ることができる。
発掘で見つかった立木・倒木の151点は詳しく調査され、樹木の過半数がスギ、特に直径1メートルを超える大木は圧倒的にスギが多いということが判明した。噴火当時、この地域は谷筋で、目通り周囲が7メートル、樹高40~50メートルのスギの大木が茂る極相林が広がっていたという。巨木のうち2本は年代が数えられ、樹齢はそれぞれ450年と650年だった。縄文時代後期に当たる噴火当時、人々は狩猟採集生活で人口はまだ少なく、巨木を使いこなす道具も技術も存在しない。獣を追って狩りをする以外、人が足を踏み入れることはなかったと思われる。
その後、弥生時代から古墳時代にかけて大陸から鉄が輸入され、6世紀頃には砂鉄を利用した日本独自の製鉄技術が各地に広まっていく。出雲は良質の砂鉄産地でもあったので、この地でたたら製鉄が盛んに行われ、最盛期には出雲産の銑鉄と玉鋼が東アジア全体の7割を占めていたと言う。人口の増加、人家や船・社寺の建築によってかつて豊富だったスギやヒノキのほとんどは使い尽くされ、製鉄に必要な燃料向けに、次第に広葉樹薪炭林に変っていったのだろう。
出雲大社にはかつて16丈(48メートル)の高さの本殿があったという記録があり、2000年には境内から直径1メートルを超える太さのスギを3本まとめた柱の根元が出土している。出雲大社の宮司に伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」に描かれたものと違わず、実際にこの高さの社(やしろ)が立っていたことを裏付けるものだ。しかし1031年には風も無いのに倒壊したという記録が残っており、それ以後、何度も倒壊と再建を繰り返している。「森のことづて」によると、出雲大社の境内から出土した柱は鎌倉時代のものとされ、興味深いのは埋没林のスギに比べ年輪幅が倍以上あったということだ。これは私の想像だが、同じ地域の日当たりの差だけでは説明がつきにくく、九州から運ばれたスギではないだろうか。天領のあった日田や天孫降臨の地・日向には古くからスギが自生し、巨木が残っていたのかもしれない。この地域と島根とは、日照時間で300時間、平均気温で1~2度の差がある。733年に完成した出雲国風土記には、本殿を建てる材料を伐り出すのは出雲市佐多町の吉栗山(よしくりやま)と言う記述があり、創建当時は地元に目の詰まった巨木があったと思われる。しかし時を経るうちに資源は枯渇し、材料を遠くから運ぶ必要が出てきた。運送手段の発達もそれを可能にしただろう。出雲大社の復元プロジェクトを実施した大林組の報告書を読むと、1110年に、近くの海岸に流れ着いた100本の大木を使って本殿を造営したという伝承があるそうだ。巨木だけが漂着するのは自然現象として違和感があるので、実際には各地に手を回して大木を集めさせたか、信仰心の篤い人々が使って欲しいと奉納したのかもしれない。大林組の復元プロジェクトでは構造解析も行われ、本殿には十分な耐震性があったが、柱の継ぎ手部分の劣化、鉄の輪の腐食による緊結の緩み、109メートルに及ぶ階段部分の地盤の不等沈下など、様々な原因で倒壊に至った可能性が指摘されている。倒壊と再建を繰り返すうちに、元の高さを維持することは困難になり、現在の高さ8丈(24メートル)に落ち着いたというのが真相のようだ。
このような歴史を振り返り、4000年の眠りから覚めた巨木を思い起こす時、私の心に浮かぶのは、日本人の「変わらなさ」だ。生き延びて、より良い生活をするための不断の努力と好奇心。技術や道具が伝われば、改良を重ねて独自の発展を遂げ、使える材料をとことん使い、自然を改変していく。台風や地震・噴火などの自然の猛威は団結して支え合い、温泉・鉱物・豊かな土壌と降雨量などの恵みをたっぷり享受して生きる、欲深でしたたかで、生命力に満ちた人間、私もその一人だ。そして同調圧力という言葉の裏には、誰も奴隷にしないという平等意識がある。古代から受け継いだ日本人の性質という太い幹に比べれば、今私達が感じている世代間の違いや貧富の差は、細い枝に過ぎないのかもしれない。ホモ・サピエンスとチンパンジーの差に比べ、肌や目の色、体つきや髪の違いがとんでもなく小さなものであるのと同じように。
この列島に蓄積した木材を資源として活かすことは、過去・現在・未来に生きる人々を繋ぎ、等しく豊かにする。差異ではなく同質を語り、多くの人々が再び森を身近に感じるような言葉と仕組みを見つければ、新しい木の時代がきっと訪れる。縄文の森の荘厳な佇まいは、それを静かに私達に伝えてくれている。
文月ブログ
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