先週、先々週と、再造林について書いた私の文章に対し、ジャーナリストの赤堀氏に厳しいご意見を頂いた。いずれも、文章で言いたかった本筋のテーマに対してというより、再造林の推進に伴う弊害や、間伐を続ける立派な林家さんの存在を忘れて欲しくないという内容だ。
赤堀氏は少数者の声を拾い、その主張は心ある人々に寄り添ったもので、コメントの賛同者の中には私が尊敬する方も含まれている。氏は実績のあるライターで、多くの林業関係者の信頼を得ておられ、私の知らない様々な事情について教えて頂くのはありがたいことだ。しかしそれを踏まえても、私の中にはどうにも消化できない大きな塊が残っていた。
それが何なのか、二週間にわたって考えた末に、私はようやくその理由に辿り着いた。「なぜ、再造林と間伐の継続(長伐期施業)が対立するものとして扱われてしまうのか」という疑問だ。私は長伐期施業を否定している訳ではないのに、人工林の更新を、と言っただけで、皆伐を迫られて困っている人がいる、間伐を続けて良い山を作ろうと努力している人もいる、という反応を示すのは、この両者を二項対立に落とし込むレトリックではないだろうか。
皆伐・再造林を進める人も、赤堀氏が紹介されたような真摯に森づくりに取り組む人も、森林を活かそうと真剣に向き合っているという点では、両者ともに賞賛されるべき人々だ。その二者を対立の構図に追い込むのは、誰も得をしない、非常に残念なことだと感じる。今の政策によって、山に向き合う立派な山主さんの多くが困っているというなら、何の力もない私に仰るより、その方々の声を結集して林野庁に訴えられてはいかがだろうか。
再造林と真に対立させなくてはいけないのは、放置であり、森林に対する無関心であるはずだ。行き過ぎた乱伐もそこに含まれる。森林を再生可能な資源と見るのか、それとも単に風景であれば良いとみなすのか、本来はそこが対立点なのではないか。そしてそちらの方が遥かに巨大で、対処が困難な強敵なのだ。
長伐期施業に取り組む方々は、その木の使い道を未来の世代に託そうとされている。今は間伐によるわずかな収入しかないとしても、見た目も美しく災害にも強い、立派な山を遺そうとする志には心から敬意を表する。堂々と、誇りを持って取り組まれれば良いと思う。
同時に、皆伐した木を製材・加工して資源に変え、山には早く森に戻るよう丁寧に植えて育てる人々もまた、私の目には尊い存在と写る。佐伯広域森林組合の今山参事は、「森林を守る一丁目一番地は木を使っていただくこと」と話す。そんな佐伯を多くの人に見て頂くツアーを来週開催できることを、私は嬉しく思う。
再造林と言えば皆伐がセットになるせいか、私が皆伐を推進しているように感じられたのかもしれないが、私は一山全部を伐ってしまうような大規模皆伐には賛成しない。だからこそ、規模を追わずに木材を大事に使って利益を上げる仕組みを追い続けている。地域の木材需要を地域材で賄い、森を手入れしてきた人が相応しい値段で木を売ることができる小さなサプライチェーンができれば、山村が抱える多くの課題に明るい光が差すはずだ。
真の二項対立は、山に向き合う人々と、山に無関心な人々との間にある深い溝だ。私はその間に橋をかけて往来を盛んにし、いつか溝があったことさえ忘れられる未来を引き寄せたいと思う。
文月ブログ
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