最近話題になっている本を読んだ。「世界秩序が変わる時-新自由主義からのゲームチェンジー」筆者の齋藤ジン氏は都市銀行に勤めていて仕事に疑問を持ち、バブル崩壊後にアメリカに渡ってヘッジファンド向けに情報提供する会社の共同経営者となり、大きな経済の転換点を何度も言い当ててファンドオーナーに巨額の富をもたらした。その人が、今世界ではパラダイムシフトが起こりつつあり、日本は30年続いた低成長の時代を脱して勝ち組になると予想している。こんな事は他の人もずっと言ってきた、と冷ややかに見る人もいるが、自分の経験と照らし合わせて考えても、私にはとても大きな希望だと思える。
パラダイムシフトが起きる時、日本の森林や木材業界に何が起こるのか、それを予想するには、これまでの歴史をつぶさに振り返ってみるしかない。そう考えて、戦後の木材価格や新設住宅着工戸数と、人口動態・経済状況とを重ねて理解しようと試みた。その結果、私は自分のあまりの無知に気づき、恥じ入ってしまった。
最も驚いたのは、拡大造林が、1973年にオイルショックで終焉を迎えた高度成長期を超えて1986年まで続いていたことだ。1960年代に毎年30万haも増えていた人工林は、1970代に入ってペースが落ちても、まだ年間20万haのペースで続いていた。この間、日本の人口は年間100~120万人も増加していたので、都市部で工場に勤める人が多くなっても、まだ山には十分な労働力があり、造林は稼げる仕事だったのだろう。
二番目は、山元立木価格や木材価格が最高値をつけた1980年が、住宅性能保証制度の開始という、住宅業界にとって大きなトピックの年だったことだ。第一次オイルショックで一旦落ち込んだ住宅着工戸数は、第二次ベビーブーム(、1971年~1974年)の影響もあってか、すぐに持ち直して木造だけで年間100万戸近い数字を維持していた。まだ国内資源が十分に回復しない中、ずっと上昇を続けていた全国平均山本立木価格は、1980年に1m3あたりヒノキが42,947円、スギが22,707円という、現在の5倍くらいの価格になった。当時の大卒初任給は115,000円で現在の半額以下だったので、実質的には10倍くらいの感覚だろう。カーター政権のドル防衛策によって、1979年に250円前後まで円安になった為替の影響など、様々な要因が絡み合った結果かもしれない。しかし1980年、住宅性能保証制度の影響か、木造住宅の着工戸数は16万戸も落ち込み、以前の水準に戻ることはなかった。
山本立木価格はバブル期に少し上向いたものの、その後は低下を続けた。2000年の時点では1m3あたりヒノキが19,297円、スギが7,794円と現在の2倍程度の価格だが、大卒初任給は20万円近くに上がり、既に伐っても大して儲からない、補助金頼みの状況になっていたと思われる。やはり、山に価値が無いとされたのは、バブル崩壊以降の30年ほどの出来事のようだ。そうだとしたら、物価が上がり、金利のある世界が戻ってきた現在、これまでの流れを反転させる大きな変化は、山と森林にも及ぶのではないだろうか。
世界中の最も適した土地で大量に生産し、大量輸送するビジネスモデルは終焉に向かっているようだ。日本でも、大手住宅メーカーが外材を使って構築してきたサプライチェーンは維持が困難になりつつあると聞く。しかし、住宅需要は減っても、決して無くなりはしない。小規模であることを強みに変えて、地域の木材需要を地域材で賄う森林直販が定着すれば、これまで域外に流出していた住宅資金はその地域の経済を潤す。バブル崩壊後、雇用を守るために技術革新より人海戦術をとってきた日本企業は、今は人手不足に直面し、AIを駆使して生産性を上げざるを得ない状況になった。付加価値を生まないホワイトカラーではなく、現場で汗を流すエッセンシャルワーカーが大事にされ、相応しい対価が支払われる社会、それを支える新しい資源が「豊かに育った森」ではないだろうか。私達が森を見捨てて放置した時代も、木々は何も言わず、大きく育ってくれた。特に、先日美作市で目にしたような、途中まででも手入れをされていた森は、今や素晴らしい木材資源となって使われるのを待っている。
都内で一億円のマンションに住むために未来を抵当に入れ、精神をすり減らすのと、地方で3,500万円の快適な家に住み、自然と融合した暮らしをするのとどちらを選ぶのか、その選択肢を示すことが、人口減少の時代に山に人を呼び戻す方策の一つになるのではと思う。
文月ブログ
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