最近、私の目や耳には、日本列島や日本人と時間に関する情報が良く飛び込んでくる。新聞・テレビ・ネットの膨大なデータの海から拾い上げるのだから、脳の感度が余程その分野に敏感になっているのだろう。
先週まで5回続けたブログは、「火山と断層から見えた神社のはじまり」(双葉文庫 蒲池明弘著)に出会って引き込まれ、自分なりに調べた情報を交えて書いたものだ。私が引用したのはこの本のごく一部で、実際の内容は遥かに広く深いので、関心を持たれた方は是非読んでみて欲しい。この本のおかげで、私は日本の旧石器時代から縄文、弥生、古墳、飛鳥時代に至る時間軸を、浅い線ながら身の内に刻むことができたと思う。
世界の四大文明はいずれも大河のほとりで生まれ、人口が増加して都市が形成され、文字を生みだしたが、資源の枯渇などが原因で衰退した。日本の縄文時代は自然と共存する定住型の狩猟採集という特異な社会だったが、人口の集中という発達段階を取らず、弥生、古墳時代へと引き継がれていった。それは始まらない文明、そして同時に、終わらない文明とも言えるのではないだろうか。
日本人は早くからクリや野生のアズキの栽培によって自然を作り変え、建築技術が発達してからは、有用な樹種を使い尽くせば別の樹種を用いて代替してきた。そこには、どんな使い方をしても形を変えながら緑が茂り、決して砂漠化しない日本の自然への甘えが見える。
今、多くの人々が目にする山は緑に覆われている。だから道路を少しそれた場所にはげ山が広がっていると言われてもピンと来ない。そして実際に、何もしなくても数年後には、ほとんどの場所で何かの植物が生え、地表を覆っていくだろう。はげ山が痛々しく広がっていた戦後とは異なり、再造林率3割という事実への危機感が薄いのも、昔からの気質のなせる技だろうか。
臨床心理士の東畑開人氏が朝日新聞の社会季評にこう書いていた。「世代間の分断、そのとき、真に失われているのは時間をめぐる想像力だ。というのも、若者にとって子どもや高齢者は同時代人でもあるけれど、同時に過去や未来から人たちでもあるからだ。(逆もまた真なり)。・・中略・・想像できる時間が縮むとき、人々には「現在」しか存在しなくなる。」
そして哲学者の内山節氏は講演で、「日本人は関係が存在を作ると考える。欧米人にとって社会を構成するメンバーは今生きている人だが、日本人は死者や自然も含むと考えてきた。」と語った。先祖が植えて育てた木を伐ったら植えるのが当然という感覚は、正にこの精神に基づくものだろう。世代間の分断や、生活を維持するためという思考停止によって「現在」さえ良ければいい人々が増えると、日本という社会は揺らいでいくかもしれない。
一方で、勇気づけられるニュースもある。3万年前の旧石器時代、台湾から与那国島まで、人々は海流に逆らって丸木舟をこぎ続けることで到達できたと、研究チームが証明したのだ。それは、当時の人々が十分な戦略を持って挑戦した事を裏付ける結果だった。漂着物、鳥の飛び方、風の匂い、それらによって、行く先に陸地がある事を確信した人々が、丸木舟で強い海流に挑んだことを想像すると、その血が自分の中にも流れていることを誇りに思う。
何万年も受け継いできた資質は簡単には変らない。私はそれを信じて、激流に漕ぎ出す人を見つけ、新しい地平に到達する手助けができたらと思う。
文月ブログ
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