最近立て続けに、日本の終戦に関わる混乱を扱った番組を見た。東映の昔の白黒映画「日本の一番長い日」、そしてNHKの「昭和の選択 敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機」である。前者は、広島・長崎への原爆投下によってポツダム宣言受諾を決めた天皇と内閣、その決定を不服として最後まで徹底抗戦を主張した一部の陸軍将校が反乱を起こし、玉音放送が流れるまでの攻防が描かれている。後者は、降伏文書への調印のためフィリピンに向かう高官を載せた飛行機が、抵抗を続ける海軍航空隊に撃墜されそうになったこと、日本の経済を混乱に陥れる米軍の軍票使用を間一髪のタイミングで阻止したことなどが紹介され、太平洋戦争の終結とその後の国体維持がいかに綱渡りの上に成立したかを始めて知る機会になった。もし、いくつも重なった条件の一つでも違っていたら、日本は内戦状態に陥り、ソ連に更に南下する機会を与え、ドイツのような分割統治や沖縄のような直接軍政が敷かれていたかもしれない。
多くの犠牲と幸運のおかげで、天皇は国民統合の象徴として生き延びられた。その贖罪の一つの形が、「全国植樹祭」につながる行幸であったと思う。この行事は戦後の混乱が収まり、荒れた国土を回復しようとした時期の昭和25年から始まり、今も続けられている。そして同じ頃、拡大造林と呼ばれる針葉樹の一斉植林が全国で開始され、その後の20年で現在の人工林の半分近い、約400万ヘクタールが造林された。
国民運動と言ってもよいほどの大造林、そのきっかけは、戦後の莫大な建築需要に、戦時中の乱伐で荒れた森林が応えられず、木材の価値が高騰したことだと言われる。燃料が薪や炭から石炭・石油に代わっていき、薪炭林として利用されていた広葉樹の価値が下がったことも大きく、各地で雑木林が針葉樹の人口林に姿を変えていった。
しかしその後は、工業化によって人が農山村から都市に吸い寄せられ、需要側の要求に屈した木材の輸入自由化と、日本からの輸出品を載せた船の戻りの運賃が安かったこと、進行した円高などが重なり、木材は海外から大量に輸入されて、せっかく植えた人工林の多くが放置されるに至った。手入れをされず成長を阻害された木々はより多くの花粉を放出し、この時期私達を悩ますアレルギーの原因になっている。
戦後の日本にははげ山が多かった。多くの犠牲者を出し、困窮に耐え忍んだのに敗れたという事実、その心の疼きは、植えた苗木が育ち、山が緑に覆われていく様子に癒されたのではないだろうか。戦争は終わり、苦しいながらも何とか暮らしていける毎日、そして木が育てばいつか高い値段で売れ、自分の懐を温かくしてくれる。そんな希望を持ちながら、今見ればどうしてあんな所まで、と呆れるほどの急斜面にも植えたのだろう。
日本の経済が奇跡的な成長を遂げ、その後のバブル崩壊、人口減少、長い低迷の時代を経て円安になった今、再び山に目を転じる時が来ているように思う。綱渡りの終戦が今の平和の礎になったように、戦後の山に希望を見た人々が植えた苗木は、手入れ不足と言われつつも大きく育って、国土を覆ってくれている。歴史の底を流れ続ける無名の人々の意思、それが宿った木々なのだから、大切に長く使いたいものだと思う。
文月ブログ
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