街路樹が伐られ、まだ瑞々しい切り株が、そこに樹木があったことをかろうじて思い出させる。最近そんな事が増えてきたように思う。銀杏の重さでイチョウの枝が折れ、下を通りかかった人が亡くなる事故も起きた。樹木にも寿命があり、いつかは枯れて朽ちる事が、一般の人々に知られ、受け入れられていくのは、ある意味良いことだと思う。
昔、初めて林業関連のイベントに参加した頃、公園を管理する造園業者の方がこぼしていたのを覚えている。曰く、虫がついたり幹に空洞ができたりした木を伐採すると、「何故木を伐るんですか!?」とすごい剣幕で怒鳴り込む人がいるのだそうだ。そういう人は、木は屋久杉のように、人が伐らなければ永久に成長すると思い込んでいて、自然破壊だと憤るらしい。普通の人が思うより、樹木の一生は気候・病気・虫・競合など様々な条件に左右され、長く成長を続けられるものはごく一部だ。しかしそれを知らなければ、太い木の状態を恒常的なものと感じ、愛着を持つのは自然なことかもしれない。
樹木は常に、他の植物と光や水を巡って熾烈な戦いをしている。それを人の力でコントロールし、用材として使いやすいよう真っすぐに伸びる木を植えて、初期は光を遮る雑草を取り除き、巻き付く蔓を切ったり成長の遅いものを間引いたりして、均質に成長させるのが人工林だ。人が扱いやすく、高く売れる太さになった時に命を奪うのは勝手な所業にも思えるが、そもそも人が手を貸さなければ、雑草に覆われて枯死していた可能性が高い。そこは持ちつ持たれつだし、CO2の吸収量も木が若いうちの方が高いのだからと流行りの言い方で納得させられる。ならば最低限、伐った後はまた植えるのが、命を利用するなりわいとしての作法だと思う。
初めて伐倒を見学した時、先に周りを綺麗にすると、傍に生えていた何本もの灌木がチェーンソーで薙ぎ払われた。それは木が倒れる時の伐倒者の退避スペースを確保するのに必要なのだと後で知ったが、え、切っちゃうの?という胸の痛みは忘れられない。林業を知り理解するにつれ、木を伐ることに何の抵抗も感じなくなっていったが、それで良かったのかと今になって思う。
林業の当事者でない私が、森林と人との距離を縮めようと思うならば、誰に向かって言葉を発するべきなのかは明白だ。その時、ごく普通の人が持つ感覚を失っていたら、多くの人に届く言葉は生まれて来ない。
街路樹が時を経て傷むように、住宅も道路も橋も全て劣化していき、誰かが点検や修繕をすることで街は維持されている。修繕が難しくなれば壊して新しく作り変える。みんながそれを知っているように、山では人が植えた木が育ち、伐った後には苗を植えて保育する命の循環を、多くの人が知るようになるといい。小さな苗が若木へと育つ様子は、見る人の心に、誰の言葉より深く真っすぐに届くことだろう。
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