私が16年間見続けた中で感じる、林業の持つもう一つの大きな魅力・可能性について書きたいと思います。私は優秀な人材、先端技術、といった言葉を使って森林連結経営の持つ可能性を説明してきました。しかしそれは一方で、従来の資本主義が振りかざしてきた効率性信仰、強いものが勝つという思想と地続きのものであり、私はそのような考え方をはっきりと拒否します。
大分県の佐伯広域森林組合で私が目にし、感動したのは、あらゆる能力・個性を持った人々が、自分に相応しい仕事を得て、生き生きと働く姿でした。その土台は、100%再造林を掲げた戸高組合長の元、20億円もの投資を立案し実行した参事の今山氏、そして製品の販売を巡って彼らを指導した、当時三菱商事建材の塩地氏らが作り上げたものです。塩地氏は販売先の開拓を助ける一方、何年にも渡り佐伯の人々を叱り続けました。答えを聞くな、自分の頭で考えろ、言い訳よりも実行せよ、失敗から学べ、そう言い続けたそうです。今やその思考と行動様式は末端の人々にも浸透し、佐伯スピリットとも呼べる、小さな挑戦の日常化として結実しています。
山長グループの会長はこう言いました。「山には真っすぐな木も曲がった木も、太い木も細い木もある。使いやすい木だけが売れて、他の木が捨てられたら、山は成り立たない。全ての木を生かしたい。」
林業に向き合ってきた人達の慈愛と忍耐強さ、それはあらゆる人の個性を受け入れ、最高の能力を引き出す知恵にもなり得ます。どんな子供も、この世に生を受けた以上、その子らしく幸せになって欲しい。それは全ての親の願いでしょう。誰一人取り残さないというSDGsの精神もそこにあります。遅れていると言われてきた林業は、一周回って、全ての木を、人を生かすという、時代の先端産業に躍り出られるのではないでしょうか。
ただ、今の日本の林業の、補助金に頼った甘えた体質のままでは、そんな事は夢のまた夢に過ぎません。他の産業と同様に、厳しい自己改革と挑戦を通して、自立への道を歩む覚悟が問われているのです。しかし、萎れた花を咲かせたければ、必要なのは罵倒や暴力ではなく、新鮮な水に浸して弱った根本を切り直してやることです。それでも水を吸い上げなければ、花屋は茎の先端をガスの炎で炙ります。そうすることで、クタッと折れ曲がったバラの蕾は嘘のように立ち直り、真っ直ぐに中空に向けて、色鮮やかな花びらを広げるのです。その価値に気づき、関心を持ち、手をかけ、時には厳しく叱咤し、協働していく、それは即ち、愛情を注ぐということなのかもしれません。
そのために、過去の人々が手にできなかった有効な道具を、現代の私達は活用できます。森林情報を詳しく捕捉してデータ化し、その利用をしやすくすることで、長期的なビジネスの立案や実施を促すことが可能になります。それは、関心と言う名の愛情を山に届ける血流と言っても良いでしょう。都市に住む人々の意識を、日本の森林に向けさせ、そこで働く人との触れ合いを起点にし、森と再び深い関係を結んでいきましょう。それはきっと、個性を否定され、時間に追われると感じている人々が、人間らしい暮らしを取り戻す道にもつながるはずです。
文月ブログ
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