2008年頃だと思いますが、林業塾の講師をされていた方に声をかけられ、島根県隠岐郡の海士(あま)町に行くことになりました。何をするのかわからず、「面白いことがあるよ」と言われて同行したのですが、後でわかったのは、海士町がその方の勤める会社に調査と提言を依頼していて、私以外の5~6人は仕事、私一人が自費での参加だったことです。それでもその旅は、他ではできない貴重な体験でした。羽田から米子空港へ、そして港からフェリーで約3時間、到着した海士町のゲストハウスでは、多くの人が笑顔で迎えてくれました。私を除く仕事組は数日前から滞在していて、海士町の各地を視察していたようです。
観光名所や地場産業の見学をした後、夕食のために磯で釣りをすることになりました。魚釣りは初めて、しかもそれが夕食になると聞いて、もし釣れなかったらどうしようと思いましたが、心配は無用でした。細い竹竿の先端にかぎ針をつけただけの道具を片手に、針に餌をつけて磯に投げ込むやいなや、簡単に6~7センチの魚が食いついてきたのです。一人十匹も釣り上げて、短時間で食材の調達は完了しました。夕食にはこの魚以外にも、食べきれないほど豊富な野菜や別の魚料理も提供され、島の生活の豊かさを実感しました。
宴会は深夜に及びましたが、仕事組のメンバーはその後、朝まで仕事をしていたようです。翌日は海士町の役所で、今回の調査の結果を受けた提言が発表されました。詳しい内容は言えませんが、提言はその後の海士町の発展に役立ったのではないかと思います。
当時の海士町の町長さんは、島の存続に強い危機感を抱き、自立への道を探ろうと訴えて書籍も著しておられました。本州と島を結ぶ航路の維持はもちろん、島の行政全体にも、国から多額の補助金が注ぎ込まれています。日本がいつまでその経済力を保てるのか、そこに頼ったままでは地域の存続は危ういと、役所の方々も真剣に考えて行動されていたのです。そのため、当時から海士町は、他県出身の若者が多く移住するIターンの町として知られていました。その流れを加速し、更に島の産業を強化する取り組みを求めて、役所は彼らの会社にコンサルティングを依頼したのでした。
島というのは、小さくても警察・消防・医療・教育・ゴミ処理など一通りの行政機関が全て揃っています。今も海士町のホームページには、「ないものはない海士町」というキャッチフレーズが掲げられ、補助金に頼る状況は簡単に変えられないにしても、そこに住み続ける幸せを感じられる町にしようとの意欲が伝わってきます。
森を巡る旅と言いつつ、海士町では、直接森林や林業に関する何かに触れた訳ではありません。しかし林業の世界では、補助金に頼ることに疑問を抱かず、少しでも多くもらいたいと考える人がほとんどです。国のお金をあてにするとはどういう事か、地域の自立と存続を何に依拠すべきなのか、それを深く考えるきっかけになった体験として、海士町訪問は今も心に刻まれています。
文月ブログ
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