看護で使われるObservationは「包み込むように見続けること」だと、NHKの朝ドラで主人公の一人に対し、日本で初めての看護学校を設立した大山捨松が説明する場面があった。ナイチンゲールの教えは、看護婦は医者ではないから病気を治す訳ではない、病ではなく病人を看ることが仕事だというものだ。劇中で、Observationに当時はまだ一般的でなかった「観察」という訳語を当てたのは、明治の啓蒙思想家「西周(にしあまね)」だとされる。観察という言葉はもともと仏教用語で、智慧によって対象となるものを正しく見きわめること。物事をよく見て、推察することだそうだ。明治以降、科学的な学問へのアプローチが浸透・定着したことにより、物事の状態や変化を客観的かつ注意深く見つめ、その本質を理解する行為、といった意味が加わった。私達がごく普通に使う言葉に、150年前の日本人の、西洋に追いつこうとするたゆみない努力の跡が宿っている。
別の日にあるインタビュー番組を見た。2014年からロサンゼルス・ドジャースの編成本部長を務めるCEOのアンドリュー・フリードマン氏は、Observeという単語を多用して栗山秀樹氏の質問に答えていた。フリードマン氏の大きな功績は、データ分析を重視し、更にスカウト部門との一体化を図ってチームを強化してきたことだ。しかしどんなに才能や適性がある選手であっても、チームの求める人間性を備えていなければ獲得を断念するという。彼は常に、選手が球団・球場のスタッフにどのように接するかを注意深く見ている。それを見れば相手がどんな人間なのかがわかるからだ。球場の清掃員もピーナッツ売りも、足を運んだ観客の野球体験を形作る仲間だという彼の、合理性から来る誠実さを支えているのが「観察」という行為なのだと感じた。
私は何に目を凝らすべきなのだろうか。林業・木材産業・建設業、そのどこにも属したことがなく、専門性など持てるはずもない自分が「観察」し続けるべき対象は何か。頭に浮かぶのは、昔からあった日本人と森との関わりが失われた今、新しい接点がどこにあるのか、そのつながりを強くする価値や技術は何か、実現できる人が誰かを見極めたいという思いだ。しかしその「観察」に必要な軸=判断基準が、私にはまだ備わっていない。それを自覚しながら、物事を左右する些細な事象に気付けるように、「観察」を続けるしかないのだと思う。
私達は日々不確実な出来事に囲まれているように見えても、その底には太く力強い流れが存在している。表面のさざ波に右往左往する人か、底流を見抜いて船を大海に導ける人か、混沌とした社会の状況はその違いを際立たせ、見極める好機なのかもしれない。
文月ブログ
コメント