文月ブログ

古代日本人の信仰とスギ・ヒノキとの関わり③

古墳時代の終わり頃、538年に大陸から仏教が公式に伝わった。587年に王族の帰依や布教に反対した物部氏を蘇我馬子が滅ぼしたことで、仏教は更に広まり、政治に利用されるようになる。593年には推古天皇が立てられ、摂政となった聖徳太子は法隆寺の造営を進めて、607年頃に完成したとされる。その後670年に火災で全ての建物が消失したが、708年から720年頃にかけて再建され、法隆寺は今も世界最古の木造建築として私達を惹きつける。以前、私が「文化遺産を未来につなぐ森づくり会議」のメンバーと訪れた際、伽藍ではない回廊の柱が直径30㎝を超える芯去り材(芯を外した外側部分から採った材)であることに、建築や林業の専門家が驚きの声を上げた光景が印象に残っている。恐らく当時としても最高の材量が集められたのだろう。
聖徳太子が派遣した遣隋使は大陸の文化や多くの知識をこの国にもたらした。その中で徐々に、人々は自国の成り立ちについて意識するようになっていったのだろう。日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇で681年とされるが、6世紀頃、百済や新羅で歴史書の編集事業がなされていたので、推古天皇の時代に、日本でも既にそのような取り組みがあったという説もある。
仏教が国中に広まったからこそ、逆にもともとこの国にあった神話や伝承に光を当てようとする機運が高まったのかもしれない。686年には天武天皇が没し、跡を継いだ皇后の持統天皇は伊勢神宮の整備を行った。即位から4年後の690年には第一回の式年遷宮が行われ、以来1300年にわたって「唯一神明造」(ゆいいつしんめいづくり)の社殿を20年ごとに新しく作り続けている。永遠の命と、常に新しく美しい外観を両立させる、これは祀る神様がアマテラスオオミカミであることと併せ、女性の理想を体現したような壮大な申し送りだと思う。
日本最古の木造建築と、日本の最高位の神様を祀る社は、二つとも女帝の時に建てられた。それはどちらも、人々の安寧や国の繁栄への無数の祈りを、千年を遥かに超えて受け止めて来た。日本は今、有史以来初の、天災・疫病・戦争に依らない大規模な人口減少という危機を迎えている。そんな時代に、有史以来最も大きな蓄積量を持つまでに育った森林が、再び人々の心の拠り所になれないだろうか。私はそんな視点から、愛子内親王の即位に密かに期待を寄せている。
社会の中に身分の差が生まれた弥生時代以降、壮大な建築は為政者の力を示し、統治するための道具だった。スギもヒノキも戦略物資だったと言える。その一方で、城よりも長く遺っているのは人々の祈りの対象、社寺仏閣だ。そしてその信仰の起源は、社が立てられた時代よりもずっと古い。
最新のデジタル技術は、建築を為政者や専門家の独占物から、一般の生活者のためのものに変えようとしている。今私達は、戦後に植え過ぎた人工林などという紋切型の認識を卒業する時に来ているのではないだろうか。デジタル技術によって、スギやヒノキは新たな価値を持って人々の前に立ち現れた。それはかつて鉄器と建築技術の普及によって、この針葉樹が日本の文化に欠かせない素材として見出されていったのと同じように。地域で暮らしを営む人々の快適な住まい、南海・東南海地震のような国難級の災害に向けた備蓄、ひいては高品質の日本の住宅として海外に輸出されるパネルの主要部材として、彼らは出番を待っているだろう。
私の体の奥底に流れる古代からの祈り、それは森と共に生きよという声として響き続けている。

 

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