ある森林組合に長く務め、定年を間近に控えた男性の回顧録を読んだ。淡々と記されたその中身の濃さに圧倒され、私はしばらく動くことができなかった。
彼は高卒で入った地元の製材所で、鋸の付いた台車に乗り、杉、桧、米松、NZ松、アガジス、ラワン、米栂等、多種多様な材を訳もわからずひたすら挽いた。4年後に縁あって森林組合に入り、その後の十数年は伐採、植林、架線、作業道、測量など森林組合の基本的な事業を経験・習得したそうだ。
山仕事に自信を持っていた三十代半ばで、彼は組合が新たに立ち上げたプレカット事業に従事する。製材の経験を買われての配属だったが、それは他社に転職したかのような、全てが一からの仕事だった。当初は加工ミスで大工さんからクレームの嵐、数年後にプレカットが急激に普及した時期には、朝4時から夜遅くまで作業が続く毎日だった。そうするうちに、彼は当初読めなかった建築図面を見て立体を把握し、製材所の経験から、使用する材量が頭の中でフィットするようになっていったそうだ。
プレカットに自信をつけた数年後、今度はアメリカ製の巨大製材機を扱う工場で責任者を任される。既存の工場での原木消費量は3万m3だったが、それを10万m3へ、莫大な数量を目指すことになった。一年目の目標である原木消費量8万m3を何とか達成し、ソーターや高速モルダーなど施設整備を続け、次第に芯込み間柱などの生産を軌道に乗せていった。売り先の確保は難題だったが、組合は建材商社との間に人脈を作り、苦労しながら販路を拡大した。
4年ほど経った平成25年、彼は再び森林整備の部署に移動となり、森林経営計画の樹立を担当。そしてその当時発生した苗木不足から、自前での苗木生産に取り組み始めた。まだ評価の定まっていなかったMスターコンテナという手法を開発者から丁寧に教えてもらったのだが、5年間は失敗続き、それでも諦めずに継続した結果、育苗のコツを掴み、最近では年間40万本を生産するまでになった。
この間、山では高性能林業機械が普及して生産量も拡大していったが、当初は市場への出荷が優先で、工場との間に十分な連携はとれておらず、工場が必要とする丸太の4割は外部から購入していたという。業界紙の主筆が「必ず失敗する」と断言したほど、高く売りたい山側と安く買いたい工場の利益相反は深刻だった。それを乗り越えさせたのは、山と工場を一体化する組織改編を含めた、徹底的な議論だったという。材量調達をコントロールできる製材工場という強みを生かすため、原木の集荷や造材を工場の生産計画にそって行うことが、少しずつ浸透していった。その陰には、彼のような、山と工場の両方を熟知する人材がいたことが大きかったのではと思う。
森林組合の山の現場から経営計画、製材・プレカット、育苗まで実務に精通した人が、世の中にどれだけいるだろうか。この男性は謙虚に、自分に課せられた仕事をこなしてきただけだと言うが、私には尊敬の一語しかない。数々の事業を立案し、組合を牽引した人が別にいたとするなら、それを支えたのは間違いなくこの男性だろうと思う。
彼が最後に強調したのは、自分が沢山失敗し、そこから学んできたことだった。「失敗できる、失敗から学べる環境」が大事だという話だ。自然は一筋縄ではいかない。雨が少なければ苗木は枯れるし、高く買った山が伐ってみれば虫食いだったりもする。そんな自然と共に生き、当り前に再造林をする中で培われてきた成長力なのだろう。近いうちに、彼の手記を直接皆様に読んで頂く機会が巡ってくる。それを楽しみにお待ち頂きたい。
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