文月ブログ

外にいるから見えるものを探して

明治中期、松江の朝の町には、米を突く音が響いた。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はそれを、「日本で最もあわれな音、日本という国の脈拍だ。」と表現した。
あわれという言葉は、最近では「非常に可哀想で強い同情を感じる」という意味に使われることが多い。けれど八雲が言いたかったのは、「もののあわれ」の感情だろう。ウィキペディアによると、「もののあわれ(物の哀れ)は、(中略)折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた(平安)王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であるとされている。」とある。
当時の日本人が当たり前に聞き流していたであろう音に、日本という国の脈拍を感じ取る。それは外国から来て日本に惹かれ、懸命に古典を学び、民間に伝わる伝承を聞き取って書き記した、そんな努力の末に備わった感覚なのだろう。
林学を学んだことも、林業現場で汗を流したこともない私だけれど、だからこそ見えるもの、感じられることがあるはずだ。それが珠玉の価値を持つ言葉になるまで、努力し続けることができるだろうか。
暑い夏の日射しを受けて、稲の穂は徐々に重みを増していく。稲と同様に日本人を支えてきた森の木々も、確実に一つ年輪を重ねている。樹木の時間を、私も生きていく。

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