吉野に生き、林業で得た巨万の富を惜しみなく社会のために使った明治の偉人、土倉庄三郎の生涯とその業績を追った田中淳夫氏の「山林王」を読みました。
心の深部にゆっくりと染み入るような感動は、その業績とはあまりに不釣り合いな、晩年の一族の没落によって、一層際立った陰影を与えられているように思います。
私が初めて土倉庄三郎の名とその功績について知ったのは、森林・林業に関心を持ち始めた十数年前、国産材を学ぶビジネスセミナーで、吉野の川上村に視察研修に行った時のことでした。昔、木材搬出に利用されていた川のそそり立つ崖に刻まれた磨崖碑、その巨大さと、制作を呼び掛けたのが明治神宮の森でも知られる著名な林学者、本多静六だという事実に、いかに偉大な人だったのかと思いを馳せたものです。吉野林業を全国に広め、教えを受けた一人である金原明善は、私の故郷静岡県で天竜川流域の植林事業に取り組み、天竜林業の基礎を築いたとも聞きました。少なくとも、林業の歴史について学んだ人なら、知っていて当然の功労者でしょう。
けれど、土倉庄三郎の貢献は林業の世界を遥かに超え、当時の社会に大きな影響を及ぼすものでした。板垣退助の自由民権運動を支えたり、同志社や日本女子大の設立に尽力したりと、明治の有力な政治家や事業家の多くが、足を向けて寝られない程の恩を被っていたようです。庄三郎が首相官邸に大隈重信を訪ねると、秘書官は顔を見ただけですぐに取次ぎ、大隈は庄三郎が椅子に座るまで自らは腰掛けようとしなかった、という随行者の証言が残っています。他にも、莫大な私財を投じた道路の開削や「吉野林業全書」出版への資金提供、伐られそうになった吉野千本桜の買い取りなど、その功績は数えきれません。
これほど偉大な人物が、なぜ一般にはほとんど知られない存在となったのでしょうか。三井家に匹敵するほどの資産を持ちながら、息子の代でその多くを失ったこともあるでしょう。けれど最も大きな要因は、「陰徳を積む」つまり人に知られないところで世のため人のために尽くすことを是とした家風にあったのだと思います。多額の資金を用立てても証文も残さない、必死で資金調達を行ったという吉野から伊勢に抜ける道も国に寄付してしまうという風に、凡庸な人間には想像もつかない生き方を貫きました。自分の貢献を隠すようにしていた土倉庄三郎、その少ない記録を数十年かけて丹念に掘り起こし、読み解き、ネットでの発信を通して得られた新たな資料を加味して紡がれたこの本は、大変な労作であり秀逸な作品だと思います。
江戸時代末期から明治にかけて、日本の森林資源は使い尽くされ、各地にはげ山が広がっていたと言います。それに心を痛め、木を植えて丁寧に育てれば樹木はいずれ地域を潤し、国を富ませると、庄三郎は各地を回って林業指導を行いました。吉野では、山火事が起こったら他村からも多くの村人が駆けつけ、自分たちの集落が燃えても、山の火を消すことを優先したという話に、私は胸を突かれました。数十年をかけて育てる木は、村人にとってそれほど大事な宝だったのです。
一面緑に覆われた現在の日本、にもかかわらず成長した人工林が十分に活用されていないことや、多くの場所で伐採後の再造林がされずに放置されている現状を知ったら、庄三郎は何と思うでしょうか。その心と行動を改めて世に示し、広く知らしめることは、産業未満の林業を社会の基盤の一つとして再構成する試みにおいて、大きな意義を持つと考えます。林業を武器として波乱の時代を駆け抜けた「山林王」、その志を継ぐ巨人が再び現れ、林業を通じて地域の存続や国力の維持に力を発揮してくれることを願います。
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