文月ブログ

森を巡る旅-言葉の探求その4「ゼミ読書会」

私が入った大学の学部は新設で、書くことを勧めてくれた恩師も新任、そして彼にとって私達は初めての教え子でもありました。6~7年後には東京の法学部に移り、最後は名誉教授まで勤められた先生に対し、多くの学生が卒業後もずっと心を寄せ続けました。学生とは立場を超えて真剣勝負、共に酒を酌み交わし、山に登り、合宿をし、ご自身の研究にも手を抜かず、常に厳しさと温かさの両方を備えた目で学生を慈しむ方でした。先輩のいなかった私達と、後輩のいない最後のゼミ生が、一回りの環になって繋がったと、退官時に仰っていたのを思い出します。
そんな先生を囲む法学部のOBが中心になり、学び続ける機会を作ろうと始まったのが「ゼミ読書会」です。学部の異なる私達を含め、親子以上に年齢差のある10人~15人が、2か月に一度、同じテキストを読み、レジュメを参考に議論します。テキストの選択とレジュメ作成は、メンバーが交代で担当しています。政治学のゼミのOBが中心ですから、政治思想史や社会学などが多くなりますが、時にはアナーキズム(無政府主義)など、自分ではまず手に取ることのないテーマが取り上げられ、知識や思考を未知の領域に広げてくれました。
印象に残っているのは、日本の近代化に関する本です。NHKの大河ドラマ「晴天を衝け」でも描かれましたが、維新の混乱を経て、明治新政府がどのようにして新たな統治機構を作り、法律を制定し、財政を支え、諸外国と渡り合ったか、それをようやく自分なりに掴むことができたからです。実行した人々の年齢の若さに驚き、流された血の夥しさに慄くと共に、自国のために身を捧げるという精神が、江戸時代末期に各地で盛んであった私塾によって形成されたという説が、私を鼓舞しました。幕藩体制という生命体が役割を終えようとする時、その内側に、新たな命を生み出し支える芽が育まれていたのです。これは、金融を中心とする資本主義が行き詰まりを見せる中、この社会のあちこちで今正に起こっている現象なのかもしれません。何より私自身が、そのような、新たな社会の在り方や移行手段を世に問う存在になりたいと思うのです。
二年前、私が選んだテキストは「公共政策学入門」でした。林業も、木材業も、政策によって決められたルールの中で動いています。それがどのように策定され、実行されていくのか、基本を学びたいと思ったからでした。公共政策は、常に利害の異なる複数の勢力の間で綱引きが行われ、メディアを利用した啓発活動などにより、社会的な合意形成に成功した側が有利な改定を勝ち取ることが多いようです。資本力に勝る大企業に対しても、今はSNSという武器があります。業界団体の声だけでなく、私達生活者の思いも反映させていきたい、そんな視点を持てることが、この読書会に参加して学び続けることの意義なのでしょう。
先生は、会が始まって一年ほどで体調を崩され、闘病を経て亡くなられましたが、遺志は会のメンバーに引き継がれて、現在も続いています。新型コロナの蔓延では個人と社会の関係の在り方を問い、ロシアのウクライナ侵攻が起きれば国際政治のデータ分析に関するテキストが選ばれます。正直に言えば、原発の再稼働や憲法改正など、微妙な問題に関するスタンスはお互いに明確にしないのが暗黙の了解となっていて、誰かの意見を批判することやぶつかることは慎重に避けていいます。そこは多様な意見を認めようという先生の方針が基本にあるのですが、議論を突き詰めないのは、第三者から見れば馴れ合いのように見えるかもしれません。しかし、だからこそ、若い人も反論に怯えることなく持論を述べられます。その結果、自分とは全く異なる受け止め方や、異分野からの知見に触れることもできるのです。社会で起きていることをより深く理解し、考え、意見を交わすこと、その学びを通して、私達は次のより良い社会への芽を育てているのだと思います。

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