日本人はいつ頃から、どのようにしてスギ・ヒノキと向き合ってきたのだろう、そしてそれは古代の人々の信仰とどのように関わってきたのだろう、最近私はそんな疑問に憑かれて、折にふれ調べものをするようになった。疑問のきっかけは「火山と断層から見えた神社のはじまり」(蒲池明弘著 双葉文庫)という本を読んだことだ。新聞で書名を目にした瞬間に心惹かれ、書店で購入して読み始めた。内容を簡単に表せば、日本人は神社が建てられるずっと以前から、火山の恵みである鉱石や温泉、断層によって形成された鉱物や直線道を交易に利用し、温泉が湧き、鉱物などを産出する場所に神の存在を感じて祈りを捧げてきたのではないかというものだ。学問的にどの程度正しいのかは私にはわからないが、古事記・日本書紀等の記述に地球の古気候を重ね合わせた大胆な推理には、心躍るものがある。
その本の中盤で、日本全国の主な黒曜石産地と近くの重要な神社の位置を示した図を見た時、私は驚いてしばらく呼吸が止まってしまった。十勝、諏訪(諏訪大社)、伊豆(三嶋大社)、隠岐(出雲大社)、北部九州(宇佐八幡宮)。いずれも、私がここ2年ほどの間にその地を訪問した、ご縁を頂いた場所だったからだ。まるで古代人に呼ばれているような気がした。旧石器時代、狩猟採集で暮らす人々にとって黒曜石は何よりも大事な道具の原料で、流通ネットワークが広がっていたとされる。特に出雲地方は旧石器時代の遺跡の密度が異常に高く、首都のような場所だった可能性があるそうだ。氷河期で海水面が100メートルも低かった当時は隠岐諸島と陸続きだったので、海の下には黒曜石の鉱脈や多くの遺跡が今も眠っているかもしれない。
いにしえの黒曜石産地とその近くにある重要な神社、そこが自分にとって重要な地なのは、生まれ育った伊豆を除き、林業や木材産業・建築に関わる調査や事業で訪れた場所だからだ。単なる偶然というより、そこに何かの必然があるのではと思い、調べてみることにした。
古事記には、出雲と諏訪のつながりを示す記述がある。アマテラスオオミカミが出雲のオオクニヌシノミコトに国を譲れと迫り、遣わしたタケミカヅチは不服を唱えたオオクニシの息子タケミナカタと戦った。負けて諏訪に逃れたタケミナカタはその地に留まるから殺さないでくれと懇願し、オオクニヌシは出雲に大きな社を建てることを条件に国を譲ったという物語だ。
出雲と諏訪には、巨木で建てた神殿と、巨木を使う祭祀という、いずれも巨木に関係する伝承がある。出雲大社では、平安時代から鎌倉時代のものとされる、直径1メートルのスギを三本まとめて鉄の輪で巻いた柱が出土している。古代の本殿の設計図と伝わる「金輪御造営差図」によると、その高さは48メートルにも達する。諏訪の御柱祭で使われるのは樅の大木だが、こちらは標高の高い場所なので、その地に育ちやすい木が選ばれているのだろう。
縄文時代になると、一定の範囲に定住しながら狩猟採集をするという、世界でも珍しい文明が発達していった。しかしこの時代の建物は竪穴式住居で、使われた木材はクリが主流だったようだ。石斧でも倒しやすく、自分達で栽培もする身近な素材だったのだろう。縄文時代は旧石器時代より温暖だったが、平均気温が数年のうちに2度~7度も上下するような苛烈な気候変動に何度も見舞われたらしく、生活環境の激変に適応するため各種の道具が進化していった。
弥生時代の紀元前3世紀頃、鉄器が伝来して使われるようになるが、使用される範囲は北部九州に留まっており、全国に普及したのは古墳時代になってからのようだ。それでも、弥生時代の後期には各地の集落に食料を貯蔵する高床式倉庫や大型の祭殿が作られ、身分の差が現れるようになった。この頃には、建物に使われる木材はスギ・ヒノキ・クリに広がった。権力者が力を示すための高層建築には、数理的な思考に加え、通直な材が必要だったのだろう。
生き延びるための道具の発達と、稲作による食料の安定確保がいつしか権力を生み出し、その頃からスギとヒノキは日本人に欠かせないマテリアルになっていったと想像する。黒曜石が廃れてからも、出雲は玉造の地、天皇を守る祭祀を司る社として特別な地位を占め続けた。諏訪は糸魚川静岡構造線と中央構造線の交差する特異点にあり、古代の交易ネットワークの要衝だった。諏訪に日本を代表する精密機械メーカーが存在するのも単なる偶然では無いだろう。旧石器時代から続く祈りと、技術の研鑽・伝承が今も息づいていると感じる。
この文章を書いている間に、広島県の遺跡から42,000年前の石器が見つかったというニュースが飛び込んで来た。その報を感慨深く聞きながら、次回は日本書紀に記されたスサノオノミコトの話を書こうと思う。
文月ブログ
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