文月ブログ

あの日の意味を思う

千年に一度の大地震が起きた時、自分がどこで何をしていたか、その事実に何か不思議な縁を感じる人がいると思う。というのは、私自身がその日、会社を休んで林業ビジネスのセミナーに参加していたからだ。
当時はまだ有料の林業セミナーに参加する人はごくわずかで、参加者は4~5人だったと記憶している。とてつもなく長く感じた激しい揺れと、続く余震、テレビで流れる津波や火災の映像、配布された毛布にくるまって、床に敷いたダンボールの上で夜を明かす、そんな経験を共にしたのが林業に関心を持つ人々だった。その中の何人かとは、今も時折SNSで情報交換している。
14年前の林業は、まだ「間伐遅れ」が課題とされていたし、林業地を訪ねると、鉢巻きに地下足袋でチェーンソーを扱う人が多くいた。今はイヤマフ付きのヘルメットが普通になり、チェーンソープロテクタを織り込んだ安全装備が義務化されている。林業白書によれば2010年の林業従事者の数は51,200人で、内53.5%が育林、36.8%が伐採・造材に従事していた。2020年には全体の従事者が43,710人に減り、内39.9%が育林、46.8%が伐採・造材と、比率が逆転している。現在は更にその傾向が強まっているだろう。森林が十分に育って利用期を迎えていると言われるが、満足に手入れされなかった林分も多い。14年前に北海道や九州が中心だった高性能林業機械の利用は全国に広がり、従事者は減っても伐採・搬出量は増えている。しかし炭素を固定できる製材品の量は増えず、円安によるエネルギー価格の高騰と相まって、バイオマス発電所で燃やされる木材が増えているのは悲しいことだ。十分な蓄積があるからと安易に燃やし続ければ、森林資源はあっという間に枯渇してしまう。それを止めるためにも、地域の建築需要を地域材で賄う森林産業の創出が必要だ。
私自身はこの14年でどう変わったのだろうか。当時はマクロの事象を追い、浅い知識でわかったような気になっていたと今は思う。少なくとも、自分が目線を合わせるべき人々の姿を捉えることが、最近ようやくできるようになった。装備や機械化が進んでも中々死亡事故が減らない中、安全に気を配りながら伐採・造材をする人、苗木を育てる人、山に苗を植えて大きくなるまで面倒を見る人、共販所で丸太を少しでも高く売ろうとフォークリフトで仕分けをする人、朝7時前から工場に来て製材機の調整をする人、そんな彼らの姿と行動を、やっと真剣に「見る」ことができている。たったそれだけのことに、随分時間がかかったものだ。
他にもいくつか得たものがある。木材の最も大きな需要先、住宅産業について、ほんの入り口に過ぎずとも昔よりは知識を持っている。そしてハウスメーカーのような大量生産・長距離輸送のビジネスが力を失い、能登震災で見たように、住宅産業が災害時の住宅の緊急需要を満たす能力をもっていないと知っている。地域の建築需要を地域材で賄う小規模な工場を全国に増やすこと、それは地域の森林の価値を高めるだけでなく、予想される南海トラフ大地震に備えた備蓄を進める拠点を拡大することにもなる。
自分が14年前のあの日に林業について学んでいたこと、それはこれから襲い来る更に大きな災害に向け、日本の森林を活かした住宅部品工場を各地に作りなさい、というお告げのようなものではないのか。私にはそんな風に思えてならない。
私にできるのは、志を持つ人々を見つけ、勇気づけて、課題を乗り越えるヒントを持つ人に繋げることくらいだ。ならば森林産業を志す人に信頼を寄せてもらえるように、これからも謙虚に学び続けようと思う。

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