文月ブログ

樹木を巡る命の話

木を伐ることは、命を奪うことなのだろうか?
先日、数人の若手仏教僧侶とお話する機会があり、同席したある人がそんな質問を投げかけた。木を伐ることに罪悪感を覚える人は沢山いる。特に百年を超えて太くなった樹木には独特の生命感が宿り、人知の及ばない尊さが備わる。しかし社寺の建立には昔から巨木が使われてきたし、仏像も太い木を使って刻まれてきた。生き物の殺生を禁じる仏教も、樹木に関しては別扱いなのかもしれない。
僧侶の一人はこう答えた。「仏教では山川草木、石ころにも仏性が宿ると考えます。木が伐られて生命体としての命が終わっても、使われることによる「用」の命が始まったと考えてはどうでしょう。」
私はなるほどと思ったが、質問者はあまり満足できなかったようだ。彼が言いたかったのは、森の中で一本の老木が倒れたとしたら、その空間に光が差し込み、数百・数千の新たな命が芽生える、その誕生を促す行為はむしろ肯定されて良いのではないか、少なくとも林業や木材産業は、自らの生業をそう捉えるべきだという事らしい。但し、重要なのは伐った木をできるだけ無駄なく使うことだ、と彼は付け加えた。誰がどう使うのかわからないまま3m、4 mに切って出荷し、製品や建築になるのは原木の20%程度という現状は、木材に「用」の命を与えたとは言い難い。相応しい需要が無ければ山に置いておき、伐るならば明確な用途とマッチングさせて極限まで使いきる、そんな向き合い方を目指したいと。
樹木の中で、葉や根を除けば、生きた細胞は樹皮のすぐ裏の部分だけだ。幹も太い枝も、樹木の固い部分は死んだ細胞でできている。彼らの役割は、多くの葉を茂らせる樹木であった間も、切り倒されて製材され、人間の作る建物に使われてからも、「形を保ち、大きな重量を支える」という点で何ら変わりはない。木を使って大きな構造物を作るのはビーバーと人間だけだと思うが、私達の祖先が数万年も前から、その性質を見抜いて活かしてきたことに驚きと尊敬を覚える。
同席していた林学を極めた方の話では、700年生きた木が倒れたら、完全に朽ちて土に還るのにやはり700年かかるそうだ。その間、幹や枝は生き物の棲家となり、微生物に分解されて土壌の養分になる。その木材から水分を抜き、腐食や変形を止めて建築や道具に使ってきたのが人間で、上手に用いれば樹齢の倍以上の寿命を持たせることができる。
樹木が大木となる700年の間、他の命の誕生や成長の機会を奪ってきた、その埋め合わせをする時間を、人間はその暮らしや祈りを支える材として頼り、利用させてもらってきたのだと思う。
発芽した場所から動かず、与えられた養分と時間に相応しい体積を、数ミリずつの年輪の積層によって作り上げる樹木、長く生きたらその分、死んだ後も「用」の命を尽くし続けるその公正さに、私は惹かれるのかもしれない。

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