文月ブログ

古代から続くものづくりのご縁

先日、隠岐諸島にある海士町の町営住宅のプロポーザルで、新潟県の小さな工務店が中心となったチームが採択を勝ち取った。一見すると、島根と新潟は遠く、何のつながりも無いように思われる。ところが、古代の玉造(たまつくり)において両地域はつながりがあったという。以前も紹介した「火山と断層から見えた神社のはじまり」(双葉文庫 蒲池明弘著)という本によると、出雲のオオクニヌシノミコトには玉造の神様としての性格が強く表れ、出雲は全国の玉造産地の中で唯一、平安時代まで生産が続けられた。松江市玉湯町にある「花仙山(かせんざん)」からは深緑色の碧玉、赤や黄色系統のメノウ、水晶が豊富にとれた。朝廷との繋がりも深く、「三種の神器」のうち鏡と剣は大陸で作られたものだが、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」だけはほぼ確実に出雲産と考えられるという。
そして古事記や出雲風土記には、「コシの国のヌナカワヒメ」がオオクニヌシの妻だという記述がある。延期式の神名帳には越後の国の「奴奈川神社」がオオクニヌシとヌナカワヒメを主祭神として祀っていることが記載されており、北陸には他にもそのような神社が多い。日本の翡翠の唯一の産地は新潟県であり、糸魚川で翡翠の鉱脈が再発見されたことから、ヌナカワヒメは古代の翡翠産地を支配する女王だったと考えられている。玉造に適した材料(翡翠・碧玉・緑色凝灰岩)の産地が佐渡や糸魚川、小松・豊岡・出雲と日本海側に偏っているので、この地域では古くから海上交通による人や技術の交流が盛んだったのだろう。
平安時代の文献には、国譲り神話でタケミカヅチに敗れ、諏訪に逃れたタケミナカタという神様は、オオクニヌシとヌナカワヒメの子供だという記述がある。諏訪は糸魚川静岡構造線と中央構造線の交差する場所にあり、古代の貴石ネットワークの要衝だった。そして中央構造線の西の端は、大分から熊本を通って薩摩半島あたりまで伸びていることが最近確認された。冒頭で紹介した海士町の町営住宅は、在来木造をプレファブ化し、更にリレー生産方式で海上輸送するという画期的な手法を取り入れる予定だが、それを可能にする技術の開発者は大分市内で生まれ育った。彼は昨年、設計図書とリモートセンシングした立木をマッチングさせて住宅を建てるという世界初の試みを成功させたが、その場所は糸魚川静岡構造線上にある松本市だった。そして不思議なご縁の極め付きは、隠岐の西ノ島にある、延喜式にも記載された「燃火(たくひ)神社」の社殿にある。場所はカルデラの内部で登山道のような険しい山道を登った先にあり、しかも山の中腹の岸壁に社殿の半分が埋め込まれたような複雑な作りになっている。その説明版を読むと、主な部分は大坂で組み立て、船で運ばれたらしい。何とプレファブ建築だったのだ。現地生産の難しい場所にはプレファブで建てる、昔の人々はそれを、精密な測定器や重機も無い時代にやってのけた。この神社への深い信仰が多くの人を動かし、それを可能にしたのだろう。
大分には姫島という黒曜石産地があったので、出雲と大分はそのネットワークでも繋がっていた可能性がある。姫島に近い宇佐八幡宮は全国に4万社あるという八幡様の総本宮で、皇室も伊勢に次ぐ第二の宗廟として崇敬されている。オオクニヌシが助けた因幡の白ウサギは、宇佐一族を表しているとする説もあるようだ。
新潟の設計士も、大分出身の開発者も、他に多くの仕事を抱えており、海士町の例だけを取り上げて特別視するのは行き過ぎかもしれない。しかし、古代の人々が星々の間に線を引き、星座の物語を紡いだように、この不思議な偶然を、古代から続くものづくりネットワークの遺伝子を持ったみどりごと考えても、罰は当たらないのではないかと思う。
過去と現在・未来は無数の見えない力で引き合い、時に常識では説明のつかない事象を引き起こすことがある。会うべき人同士は無数の人の波から必ず互いを見つけ出す。人の暮らしを豊かにする素材と技術を持った人々がつながり、ネットワークが形成されるのは、古代からの常だったのだろう。国産材による新しい木造の時代を実現する技術者のネットワークは、この海士町プロジェクトに関わった人達を中心に広がっていくような気がする。

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