文月ブログ

古代日本人の信仰とスギ・ヒノキとの関わり②

日本書紀には、スサノオノミコトが髭から杉を作り、胸毛から檜、尻毛から槇、眉毛から楠を作り、杉と楠は船に、檜は宮殿に、槇は棺桶に使うよう定めたという逸話が収められている。日本書紀が成立したのは720年と伝わり、ヒノキを主体とした法隆寺が最初に建立されてから110年ほど後だ。つまり、既にヒノキが建築に欠かせない有用樹種という認識が広く共有されていたから、それを生み出したのが天皇の先祖だという伝説が採用されたのだろう。スサノオは息子のイタケルノミコトと共に最初は朝鮮に降り立つが、その地を気に入らず、天から持って来た種を植えずに船に乗って出雲に上陸した。スサノオが作ったとされる樹木のうちスギとコウヤマキは固有種に近いので、日本にしか植えなかったという記述と整合性がある。コウヤマキで作られた棺が百済の武寧王の墓から出土していて、交易または返礼品として貴重だったことが偲ばれる。
イタケルノミコトは二人の妹姫と共に、九州から始めて全国に木を植え青山と成し、その功績を称えられた。最後に鎮まったとされるのが和歌山にある伊太祁曽(イタキソ)神社で、今も林業関係者が揃って参拝すると聞く。紀の国は、もとは木の国だったと伝わり、昔から林業が盛んだった。そして、今は三重県にある伊勢神宮も紀州藩に属していた。前回紹介した本「火山と断層から見えた神社のはじまり」(蒲池明弘著 双葉文庫)の著者は、断層の境界面に生じる直線地形が歩きやすい道として古代から利用されてきたと言う。実際、現在の道路や鉄道が断層に沿っているケースも多いようだ。伊勢神宮が中央構造線の上に位置しているのは良く知られた話で、旧石器時代には伊勢湾は陸地だったので、古代人は中央構造線の道に沿って諏訪と伊勢を行き来することができた。構造線の直上にあるのは外宮の方で、アマテラスオオミカミを祀る内宮は4キロほど離れているが、一つの神社であることは間違いない。ちなみにイタケルノミコトを祀る伊太祁曽神社は、紀伊半島の反対側の和歌山市にあるが、やはり中央構造線から5キロ程度の場所にある。
前出の本によれば、私の育った伊豆は歴史のある神社が密集する地域だそうで、平安時代に作られた「延喜式」の神名帳には、面積や人口から見て極端に多い、92座の神社が記載されているそうだ。神津島は黒曜石の産地で、氷河期にも陸続きになる事は無かったが、陸地との距離は今よりかなり短かっただろう。三嶋大社は伊豆の国一宮で、主祭神のうちの一柱は俗に恵比須様とも称されるツミハヤエコトシロヌシノカミだ。このコトシロヌシはオオクニヌシの息子であり、伊豆と出雲とのつながりを示すという説がある。そう言えば、隠岐と伊豆は流刑地という共通点もある。隠岐も狭い地域に式内社がひしめく場所で、後鳥羽上皇をはじめ百人近い人々が流された。伊豆は源頼朝が流された場所だ。どちらも都から遠く離れているが、相応の格式を保った生活をさせることができ、不穏な動きがないかなどの情報を掴める土地だったのだろう。
中央構造線の東の端は幾つかの説があるようだが、推定線の一つの上には鹿島神宮があり、国譲りの神話でオオクニヌシの息子タケミナカタと戦って勝ったとされるタケミカヅチが祀られている。この辺りは古代の砂鉄産地で、タケミカヅチは剣の神・鉄の神としての性格を持っている。本の著者は、出雲のオオクニヌシ、諏訪のタケミナカタ、伊豆のコトシロヌシ、という三神が、鉄の普及と共に衰退した黒曜石を象徴しているのではないかと言う。
鉄は弥生時代の終わり頃から朝鮮半島経由で輸入されていたが、ヤマト王権が勢力を拡大して国の形ができていく5世紀頃には、製鉄技術が伝わって各地に広まっていった。スギもヒノキも、人が移住する遥か昔から日本列島に成育していたはずだ。それを天皇の先祖が体毛から作り出し、九州から初めて日本全国に植えたという神話が作られたのは、伐採や加工に適した道具と建築技術が伝わることで、有用な樹種として見出されていった過程を表しているのではないだろうか。日本という国の形ができていくにつれ、スギ・ヒノキはその重要性を増していったように思える。
次回は法隆寺や伊勢神宮が造営された飛鳥時代に進みたいと思う。

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