文月ブログ

生活者と森をつなぐ

森づくりに関わる、ある市民団体ネットワークの設立に関する文章を読んだ。この分野では老舗と言える、立派な活動をしている団体だ。このネットワークには私自身も加入しているのだが、広報誌を見ると、個人会員は250名程度。団体会員も100団体ほどで、会費収入や寄付に加え、各種助成金などを得て運営されているのだろう。
このネットワークの設立は1995年、阪神淡路大震災の救援に多くの人が駆けつけたことから、ボランティア元年と称される年だ。しかしネットワークを構成する組織の多くは、森林ボランティアの草分けとなった1974年の「草刈り十字軍」をはじめ、1980年代に全国各地で生まれた市民団体だった。このネットワークとは無関係だが、私がかつて所属し、20年近く活動した箱根のボランティア自然解説員の団体も1987年に創設された。この頃は、自然保護、環境保全の重要性が広く認識され、成長を続ける経済の陰で取り残される課題に対し、市民が自らの手で対処しようという意識が高まった時代だと思う。会社を退職した男性や、子育てが一段落した主婦、環境問題に関心の高い大学生など、多くの人が無償の活動に意義を感じて集まった。
しかし、20年所属したボランティア団体の中で、私が最後に感じていたのは、組織の新陳代謝の難しさだった。利益を追求する企業の場合、給与や福利厚生などの条件を提示して若い人を採用し、役職定年などを設けて年齢構成のバランスを維持しようとする。しかし理念の共有によって成立した組織には、構成員の若返りを促す積極的な仕組みがなく、設立当初のメンバーが共有していたその時代の空気感のようなものを、新たな加入者は知らない。更に、バブル崩壊以降の長いデフレ時代に、多くの人が生活のゆとりを失い、大学生は学費のためのアルバイトに追われるようになった。人口が減少する中で、無償の活動を担う人々の関心は困窮者の救済やペットの殺処分ゼロなどにも広がっている。森林は山を覆っていて、見たところ問題らしきものは感じられない。実は課題だらけ、という話に耳を傾けてくれる人はごく少数だろう。
何が言いたいのかと言うと、冒頭のネットワークをはじめ、多くの団体の真摯な努力にも関わらず、人々の森林への関心が期待したほど高まらず、森と人との距離が縮まったとも言い難い状況の背景に、社会的な運動の萌芽から成長・隆盛、そして衰退(と言っては失礼だが)に向かう大きなタイムサイクルが関係していたのではないかということだ。私がずっと抱いていた違和感は、運動を支えていた社会構造が変化したのに、運動のスタイルが変わらない事への疑問だったのかもしれない。
誤解の無いように言っておくが、私は決して従来の市民組織やNPOの活動を批判している訳ではなく、むしろ寄付その他によって積極的に支援している。ただ、e-スポーツ、暗号資産、メタバースといった世界と、それを拠り所にして生活する人が増え続けるという、これまでとは全く異なる社会の中で、より多くの人が森に足を踏み入れ、森林の問題を自分ごととして捉えてもらうためには、飛躍する発想が必要なのではないだろうか。森に行くことの直接的な価値―楽しみ、癒し、創造性の発揮など―を人々が感じられる仕組みの創生には、森林享受権、コモンズといった言葉がヒントになるような気がしている。デジタル技術によって、森林を場所や所有の制約から解き放ち、人々が森林の持つ包摂と賦活の力を存分に感じ、慈しむ、それを可能にする方法を探していきたいと思う。

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