文月ブログ

木造建築に宿る命

「森林と建築の融合は再造林の責任を共有すること。」先日聴講した大学の授業で教授が語った言葉だ。データ連携によるコスト削減などはむしろ表面的な効果に過ぎず、真の価値は、建築が資源の収奪産業から育成産業に変ることなのだと気づいた。
古来、都市は栄えては、周囲の木を伐り尽くし、水を使い尽くしてやがて滅びていった。中央アジアの砂漠では今も、移動し続ける砂の中から、古い柱や土台が姿を現すことがある。そこで暮らした人々の息遣いや仕草が、カラカラに乾いた木肌に刻まれているような気がする。樹木は都市を支え、都市に殉じる素材だった。
今、日本の都市に立ち並ぶビルのほとんどは鉄とコンクリートでできていて、その量は凄まじく、いくら日本の森林の蓄積が史上最大だと言っても、代替できるのはほんの一部だ。しかし、SDGsへの取り組みを強調したい大手企業がこぞって木造ビルの建設を打ち出し、木造なら何でも良いと言わんばかりの流行りになっているのは少々疑問に思う。戸建て住宅の着工棟数減もあって、山側には木造ビルへの期待があるかもしれないが、実際には特殊材の一過性需要で終わり、木材の価値を上げる状況にはなっていないように見える。
特に強調したいのは、主伐(一定の面積の森林を全て伐採し収益を確定させること)後の再造林率が30~40%でしかない中では、国産材を利用した建物の6割以上が森林破壊の元凶になっているという事実だ。伐採後の再造林が担保されない、または森林整備で出た間伐材だという保証もない木材を使って、環境への貢献を謳うのは果たして正しいのだろうか。
多くの人は、「木は何となく生えているもの」だと思っている。何もしなくても「何となく生えてくる」場合ももちろんあるが、人工林は基本的に人が苗を植えて世話をした林だ。時期が来たら収穫して使うために植えられた、祖先からの贈り物だが、それを使うなら、自らも子孫のために木を植えて育てるのが条件のはずだ。
ザル法と言われたクリーンウッド法が、来年度からようやく登録事業者に合法性の確認義務を負わせるよう改正された。一歩前進ではあるが、本当に機能するのか疑問が尽きない。伐採届のコピーなど、デジタル化して位置を地図上に表示・公開しない限り、使い回しをどうやって見破るのか。木材需要者は供給者に対し、ズルを許さない厳しい要求をして欲しいと思う。
建築は、機械文明などより遥かに昔から、人の叡智の塊であり、為政者に欠かせない統治の道具だった。建築を手掛ける人には、大なり小なり、その歴史を受け継ぐ誇りがあるだろう。だが、政権が変わると燃やされる建物など、今は誰も求めていない。更に、企業や自治体が虚勢を張るような大規模物件より、普通の人の暮らしを豊かにする建築の方がずっと価値があるのではと私は思う。
だとすれば、続いていく暮らしを守る家、子孫に手渡せる森、それは一体のものだ。たとえ建築が、木の命を奪うところから始まるのだとしても、林業のみに再造林の責任を負わせることなく、自ら森林の継続を担う意識を持って頂けないだろうか。そうして初めて、木造建築に循環する命が宿る。50年後にその家が朽ちても、今植えられた木は大きく育って新たな家の素材となり、人々の記憶も引き継がれていくだろうから。

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