文月ブログ

深まる秋に想う命の重み

深まる秋は、命を支える恵みのことを考えさせる。頭(こうべ)を垂れる稲の穂、甘い果実を実らせる梨やリンゴ、広葉樹はドングリを落とし、草も無数の種を風に散らせる。やがて来る冬に備えて、多くの生き物がそれを糧にして栄養を蓄える。地球上の多くの場所には、四季や、雨季と乾季といった循環する気候の変化があり、そこで暮らす生き物はそのリズムに適応しながら子孫を残していく。
地球上の全ての生き物は、何億年も昔の原始地球に生まれた、たった一つの生命体を祖先に持つと考えられている。酸素の無い環境で、様々な化学物質の集合体から、いつどうやって自己複製して増殖する命が生まれたのかはまだ謎だ。しかし最近では、生命の誕生に近い現象を試験管の中で再現したという報告もされている。同じ祖先から出発して、樹木や草、菌類、昆虫や甲殻類などの節足動物、そして鳥や魚などの脊椎動物の中に哺乳類、更に私達人類がいる。随分と遠い彼方から旅をしてきたものだと思う。
人間が生きていくために、他の命を犠牲にするのはやむを得ない。菜食主義の人達は、それでもその罪を少しでも減じたいと命の線引きをしている。そのラインの引き方に疑問はあっても、命の重みを忘れないという姿勢には共感する部分もある。安い蛋白源として重宝される卵が、悲惨な飼育環境に置かれた鶏に産ませたものだという記事を目にして、卵や乳製品まで忌避するヴィーガンという人達をあまりにも極端だと思っていた自分が少し恥ずかしくなった。
私はこの先も、肉も卵も食べながら生きていくだろう。しかし、例えばケージでない場所で飼育された鶏の卵を高くても入手してみるとか、何か嫌だと思う事態を少しでも改善する消費行動はできると思う。そして、ともすると同様に嫌だと思われがちな木の伐採ということに対して、感情を無視するのではなく、穏やかに理解を得られるような説明ができるようになりたいと思う。

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