文月ブログ

木々に寄せて-その5「栗」

「栗」と聞けば食用の栗を思い浮かべますが、「栗の木」と聞くと、多くの人は何を思うのでしょうか。私は鉄道の枕木を思い出します。幼い頃、線路のすぐ傍に住んでいたことがあり、列車が通過する時の振動や音、近くの踏切の様子も微かな記憶として残っています。森林や林業に関心を持つようになってから、レールを支えていた枕木に、ナラなどと共に栗が使われていたのだと知りました。あの頃に毎日見ていた風景の、塗料を塗られて黒光りしていたあの枕木は栗だったのかと、懐かしさに胸が疼きました。固い栗の木は、昔は各地に大量にあったのでしょう。しかし明治維新後に日本全国に張り巡らされた鉄道網に利用されたせいか、今では産出量が少なくなりました。その後モータリゼーションの進行で、地方の鉄道は廃線が相次ぎましたが、レールが残っている場所では、未だに栗の枕木が錆びた鉄路を支えているのかもしれません。
「栗の木」と聞いて他に思い出すのは、縄文時代の集落を支えた話です。三内丸山遺跡の公式ホームページによれば、大型堀立柱建築跡からは、直径1メートルの栗の柱が見つかっているそうです。固い木をどうやって加工したのだろうと想像が膨らみますが、恐らく石の斧を使い、数人がかりで何日もかけて伐採したのでしょう。栗はもともと腐りにくい性質がありますが、それを増すために、外側を火で焼いた跡もあるようです。縄文時代の人々は、私達が思う以上に様々な知恵を持っていたのでしょう。出土品の調査から、そこで暮らしていた人々が栗を栽培していたという報告も出ています。沢山実をつける木を選び、その枝を挿し木して増やしたのでしょうか。5900年前から4200年前の集落で、相当長期間にわたって存在し、最盛期には500人が暮らしていたとされています。自然を使い尽くさず、その生産力を最大限利用し、遠方の地域とも交易でつながっていたことを思うと、その叡智に慄然とします。一体どのような規範を持って、その抑制された暮らしのルールを維持していたのでしょうか。それを知る方法があればと心から思います。
三内丸山遺跡にはもう一つ興味深い調査結果がありました。大型建築物の柱穴の大きさやその間隔が2メートルや4.2メートルで、35センチの倍数だというのです。これは縄文尺とも呼ばれ、同時代の大型の住居跡にこの長さを基本としたものが多く見つかっているとか。尺貫法の一尺と、欧米で使われる1フィートが約30センチでほぼ同じなのは、肘から手首までの長さが基本となっているからだそうですが、縄文の人達が現代人より一回り以上も体が大きかったとは考えにくいので、全く別の何かを基準にしたのでしょう。それでも、多くの人が使う大型の建物に共通の尺度が使われているのは、複数の人が共同で行う作業を効率的にする意味があったのは間違いなさそうです。
栗の実の豊富な栄養は人々の重要な食料となり、固い幹を使った頑丈な建物は、倉庫や祭祀の場所として、人々の結束を強める役割を果たしていたでしょう。長く自然と共存した縄文人の知恵は、地球という閉ざされた環境で暮らす私達が、もっと深く知り、現代の社会に生かすべきものではないか、そう強く感じます。

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