体と心が健全なバランスを保つのに、個々の感覚はどんな役割を果たしているのか、考えさせられる出来事があった。
懇意にしていた近所のご婦人は耳に障害があったが、補聴器をつければ会話ができ、私はよく声をかけられてお茶やお菓子を頂きながらお喋りした。しかし誰もいない時は、機械が小さな音も拾ってしまい耳障りなので、女性は補聴器を外して暮らしていると言っていた。私には何の知識も無かったが、それでは何か危うい気がして、ラジオを聞くなど、できるだけ補聴器を付けて生活する方がいいのではと勧めたが、女性には己の道を行くという気概があり、自らの習慣を変えることはなかった。そんな女性が、しばらく姿が見えないと思っていたら、一緒に暮らす息子さんの海外出張の間に認知症を発症し、あっという間に要介護になってしまった。
その後、新聞で、耳からの情報が減ると認知症になりやすい、聞こえにくさと認知症の発症とは有意な相関があるという記事を読んだ。自分の直感は正しかったと思ったが、もっと早く裏付けとなる専門家の意見に接していたら、できる限り補聴器を付けたまま過ごす方がいいと、彼女と息子さんに話ができたかもしれない。
生まれつきや病気で聴力を失った人は、その分視覚や嗅覚、触覚など他の感覚が鋭敏になり、失った聴覚を補うそうだ。しかし補聴器で補正できる状態で暮らしてきた人は、耳からの情報の途絶がそのまま生きるための感覚の衰えに直結してしまったのだろう。
私は大学生の頃、森の中では自分が生き生きし、無条件に幸福を感じられると気づいた。木漏れ日と数限りない種類の緑、頬に触れていく風、鳥達のお喋り、掘り返された土やちぎれた草の匂い。一言で言えば、森が「命の気配に満ちた空間」だったからだと思う。森で食べるおにぎりの美味しさを含め、五感の全てが喜んでいる感覚だった。
建物の中に居ると、安心や快適さと引き換えに、命の気配は遮断される。必要な栄養を摂り、ジムのトレッドミルで走ったとしても、それだけではいずれ何かが枯渇するだろう。水が水分子同士で引き合うように、私達も命と触れ合うことを本能的に欲していないだろうか。特に、芽生え成長しようとする命の放つエネルギーは、古い細胞をも活性化する。ドイツでは身心の衰えた人に「森に行く」事が処方されると聞くし、庭仕事や農作業をするお年寄りが元気なのはそのためだろう。
「音」は、見えない遠くから風雨や落石、侵入者などの危険を知らせるシグナルだ。リスクの察知を放棄した時、人は生きる意思と能力を自ら手放してしまう。触覚や嗅覚も、程度や対象の差こそあれ同様だろう。人は生きている限り、あらゆる感覚を総動員して「命の気配」を感じ、そこからエネルギーを受け取らなくてはいけない。私が森に惹かれる理由の一つがわかった気がする。
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