日本の林業再生のために、自分にできることを探して旅を続けていた私が初めて塩地氏と出会ったのは2020年、ウッドステーション株式会社が木造大型パネルという技術を普及していくために立ち上げた「みんなの会」という任意団体の設立時のことでした。それまで全く知らない建築の分野で、大きな技術革新が起ころうとしている。塩地氏の放つエネルギーの大きさに、それが国産材にまで影響を及ぼすことを直感し、私は即座に入会を決めました。
その後、大型パネルは着実に実績を伸ばし、2021年2月、私は長く務めた会社を退職後に一時在籍していた木材団体の事業を通して、塩地氏と情報交換をするようになりました。
私が木材流通について学びたいと言ったことから、塩地氏は元早稲田大学教授で、「サプライチェーン」という言葉を日本に紹介された椎野潤先生を紹介して下さったのです。先生は85歳という高齢ながら、毎週2回、林業再生・山村振興をテーマにブログを書き続ける、見上げるような方でした。書かれたブログが林野庁内で共有されていたこともあり、先生のブログ発信通知を代行するという作業をお引き受けすることになりました。そのご縁で、筆者のお一人である酒井先生にお会いする機会を得たのは幸いという他ありません。
そんな中、何と塩地氏が持病の悪化で倒れ、かろうじて集中治療室から生還するという事態になったのです。ご本人が震える指でSNSでの発信を続けたことから、当初は誰もそこまで危険な状況だと知りませんでした。実はこの時塩地氏は、もし生き延びることができたら国産材の問題に向き合おうと、苦しい息の下で考えていたそうです。外見からはわからない、重い後遺症を抱えながらも、塩地氏はわずか数日で仕事に復帰しました。
その後、大型パネルへの国産材利用を訴えていた私に、塩地氏が二年前から主宰し、一旦休止していた仮想木材研究会を再度活性化したいという話がありました。木材団体で取り組んだ、林業DXを目指す事業計画の枠組みにおいて、筆者の一人である鹿児島大学の寺岡先生ともつながりができており、声をおかけしたのです。
こうして、新たなメンバーを加えた仮想木材研究会の事務局を務めるうちに、私は木造大型パネルがいかに優れた技術であるか、一般名詞としてオープンに普及を目指す手法が、いかに良く練られた戦略かということを理解していったのです。
折しも、早稲田大学で高口研究室の学生さんが佐伯広域森林組合の生産・販売データを分析し、設計図書から遡って製材や造材を行うことで、在庫の圧縮や歩留まりの向上により、利益を増やせる可能性が高いという論文を発表しました。ここに至って塩地氏は、もう補助金を当てにする研究の段階ではなく、実際に実業化を図るべきだという決断をしたのです。システム構築への着手の他、この技術を核とした林業再生を広く世に問うための書籍の出版が、塩地氏の頭に浮かんだのでしょう。
椎野先生のブログ発信通知を代行する中で、私は熱心に感想を返信して下さる方へのお礼と共に、自分なりの考えを書き記していました。それを見ていた椎野先生は、私にもある程度の書く力があると認めて下さり、発表の機会を与えたいとお考えだったようです。
先生の思いを耳にしていた塩地氏は、複数の専門家の筆からなる書籍をいかに一般のビジネスパーソンに受け入れられる内容にするのかという課題との交点に、私が案内人として関わるという解を見出したのでしょう。
2021年11月、鹿児島大学の寺岡先生やその学生さん、塩地氏の旧知の友人である日経BPの関係者と共に、私は佐伯広域森林組合を訪れることになりました。書籍に私を参加させるという塩地氏の提案に、日経BPのO氏は「まず何か書いたものを読んでからですね。」と冷静に返しました。佐伯広域森林組合を訪ねてまとめるレポートは、正に私の人生を左右するということがはっきりしたのです。「森林列島再生論」につながる、震えるような期待と不安に満ちた旅が始まりました。
次回に続きます。
文月ブログ
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